第93話 鬼神、再来
落ちた、という感覚はなかった。
気づいた時、翔は立っていた。
足元は、地面のはずだが、踏みしめた感触がない。
生き物の内臓を踏んでいるような、不快な感覚。
「……ここが、黄泉……」
空はなかった。上も下もなく、ただ黒が広がっている。
遠くで、何かが動く気配がする。だが、近づいてこない。
まるで――様子を見ている。
「お父?......」
返事はなかった。
翔は一歩、踏み出した。
音がしない。
自分の足音も、息の音も、やけに遠い。
背後を振り返る。
来たはずの裂け目は、もうない。
蘭も、鉄喜も、音葉も――いない。
突然、空気が、濁る。
圧力を感じる。
翔は、反射的に身構えた。
──何か来る。
そう思った瞬間、闇が、笑った。
「クク……親探しとは......素敵やん」
腐臭と酒の匂いが、混じり合って鼻を刺す。
闇の奥から、ふわりと般若が浮かび上がる。
「会えへんで。ここは、そういう場所とちゃうねん」
揺れる巨大な曲刀と瓢箪。
「……酒呑童子」
翔は、喉を鳴らした。
「前は……運が良かっただけやん」
酒呑童子が、嗤う。
「ここは黄泉や。無理やで、お前」
次の瞬間。
酒呑童子から発せられた衝撃が、翔を吹き飛ばす。
受け身を取る前に、地面が跳ね上がる。
「もう生きて戻られへんで」
刃が、走った。
ブンッという低い風切り音。次の瞬間、翔の横を通った空間が、削り取られた。
避けた。
紙一重。
地面に着地した瞬間、背後からまた来る。
横薙ぎ。
翔は、跳んだ。刃が足元を薙ぎ、黄泉の地が裂ける。
「ははっ!ええでぇ、その顔や!」
酒呑童子は、楽しそうに曲刀を振る。
受けたら終わり。
翔は、それだけを理解していた。
翔は踏み込んだ。
肘。
ゴン、と鈍い音がして、酒呑童子の脇腹に沈む。
「……ッ!」
効いた。
確実に。
だが、次の瞬間、曲刀の柄が振り上がる。
翔は、転がった。
さっきまでいた場所が、酒呑童子の一振りで消える。
「すばしっこいやっちゃなぁ……!!」
酒呑童子が、斬り下ろす。
翔は、頭突きで間合いに飛び込んだ。
額が、鼻骨に叩き込まれる。
酒呑童子が、よろけた。
翔の連続攻撃が酒呑童子を捉える。
膝。蹴り。突き。
腹、喉、関節。
技じゃない。喧嘩だ。
「ガァッ……!!」
翔はニヤリと笑った。
「喧嘩だぞ。今度こそ、よそ見すんなよ、おっさん」
酒呑童子は笑った。
「お前や、それは」
翔の足元が突然沈んだ。
「なっ!」
「ここは黄泉やぞ。喧嘩は通用せんのや」
地面が翔の足を掴まえた。
──ヤバい。
「今宵はお前の首でええ酒が飲める」
曲刀を大きく振り上げた酒呑童子。
「終わりや」
その時、翔は地面に向かって手を突き刺した。
指先が、闇を掴む。翔は、目を閉じ掠れた声で呟いた。
「……感じろ」
酒呑童子は、一瞬きょとんとした顔をして、次の瞬間、腹を抱えて笑った。
「ははははは!!」
曲刀を肩に担ぎ、見下ろす。
「何言ってやがる、この黄泉に──」
刃が、ゆっくりと翔を指した。
「自然はありゃせんぞ」
その言葉に翔は、ニヤリと歯を見せた。
「……そうか?」
酒呑童子の足元。
闇しかなかった黄泉の地が、僅かに、脈打った。
「……あ?」
次の瞬間。
緑の炎のようなオーラが、地面から噴き上がった。草でも、火でもない。だが、確かに“生きている”。
「な──」
酒呑童子の言葉は、そこで途切れた。
曲刀を振るう間もなく、オーラが、酒呑童子の巨体を包み込む。
「バカな……!!ここは……黄泉や……自然など!!」
叫びは、徐々に掻き消えていく。
酒呑童子の体が、内側から崩れ始めた。
角が砕け、曲刀が朽ち、憎悪のオーラが霧に変わる。
「……自然の申し子とな……」
最後に、酒呑童子は笑った。
「なるほどなぁ……神が……恐れるわけだ……」
次の瞬間。
酒呑童子の残滓が、音もなく霧散した。
緑の光も、それに合わせるように消える。
──そして。
黄泉が、沈黙した。
翔は、まだ地面に手を突いたまま、荒い息を吐いていた。
自分が、何をしたのか、まだ分かっていなかった。




