第91話 開かれる禁断の裂け目
黄泉口山脈の奥は、静かだった。
風はない。雪も降っていない。寒い。
翔は足を止めた。
──おかしい。
前に進もうとすると、足が重くなる。
鼻をつく、甘ったるい匂い。
腐った花のような、血のような匂い。
「黄泉……近いのか?」
呟いた声が、やけに遠くまで響いた。
視界の端で、何かが揺れた。
「悪鬼!?……いや」
無数の視線が翔を見ている。
「笑ってる……」
足取りが遅くなるほど、その視線が迫ってくるようだ。
「ダメだ……体が動かな……い」
その時、翔の後方で鈴が鳴った。
振り返ると、紫の光が二つ、揺れていた。
「お……音葉……なんで、お前が」
音葉が錫杖を一振りすると、影は一瞬にして消し飛んだ。
「月詠……」
音葉は、その光る目で翔を見下ろした。
「黄泉へ向かう愚か者は、お主だったか、ワイルドブラッド」
翔は音葉の顔を見上げた。
「黄泉へ行く道は、常には在らぬ。生者が踏み込めるのは、我が来た、今だけだ」
翔は膝に手を置き、なんとか立ち上がった。
「……なんでお前が、オレを助ける?」
音葉の体を操る月詠は、ニヤリと笑った。
「父は黄泉を恐れ、逃げ帰った。だが、行こうとした意思は、誰にも止められなかった。我は、その結果だ。黄泉へ行く意思、それがあるなら、道を開く」
翔は笑った。
「そうか。ありがたい」
音葉は天を見上げた。
「我が道を開けば、黄泉の軍勢が襲い来る」
──飲み込まれるぞ、ワイルドブラッド。
音葉の背後を見た翔は、頭を抱えた。
「なんてこった……多分、いま大丈夫になった」
「翔くん!」
「翔!」
白い息を吐く蘭と鉄喜だった。
蘭は唇を震わせた。
「……なんで、その女が……いるのよ」
音葉が錫杖を地面に突き立てた。
「準備は良いか?」
翔は拳を握り、頷いた。
乾いた音が、雪の下から返ってくる。
岩でも土でもない──閉ざされていた何か。
紫の光が、足元に円を描いた。
「……開いたのか」
翔の問いに、音葉は答えなかった。
地面が、軋んだ。
錫杖の先を起点に、黒い亀裂が走る。
それは地面だけでなく、空気そのものを裂いていた。
腐臭が、一気に溢れ出す。
「……なに、これ……」
蘭の声が震えた。
裂け目の向こうで、何かが動いた。
人に似た輪郭。だが、顔がない。
足音はない。
湿った音だけが、重なって近づいてくる。
「黄泉の軍勢……」
裂け目の縁に、影が立つ。
一体ではない。
数は、影に重なり、わからない。
翔は奥歯を噛み締めた。
音葉の錫杖が、わずかに震えた。
「翔くん……」
音葉の目の輝きが元に戻り、意識が戻る。
その瞬間、錫杖の光が弱まる。
音葉の息が荒くなった。
「……長くは、持たない」
裂け目の内側から無数の黒い手がかかり、腐臭が広がる。
翔は一歩、前に出た。
「十分だ。あとは、行くだけだ」
恐怖はない。
行く理由──それしかなかった。
背後で、鉄喜が拳を鳴らす。
「上等だ。やるぜ!」
裂け目の奥で、無数の影が、同時にこちらを向いた。
黄泉が
──生者を、待っている。
「くるぞ!!」
声と同時に、影が動いた。




