第87話 それは覚悟じゃない
店の中に、重たい沈黙が落ちた。
翔の言葉の余韻が、まだ空気に残っていた。
誰も、すぐには口を開けなかった。
最初に動いたのは、蘭だった。
「……やめて」
小さな声だった。
自分でも驚くほど、弱かった。
翔は何も言わず、蘭を見た。
「やめてよ、翔くん」
今度は、少しだけ強く。でも、声は震えている。
「黄泉なんて……そんなとこ、行って……」
蘭は一歩、翔に近づいた。
「戻ってこられる保証、あるの?生きて帰れるって、誰が言ったの?」
翔は黙ったままだった。
その沈黙が、蘭を追い詰める。
「ねえ……翔くん……」
言葉が、崩れ始めた。
「いい加減にしてよ……」
蘭は唇を噛んだ。
「なんで……なんで、そんな簡単にいなくなろうとするの!?翔くんがいなくなったら……アタシは、どうすればいいの……」
翔の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「みんな、黙ってないで、なんとか言ってよ!!」
次に口を開いたのは、光明だった。
「翔や」
低く、落ち着いた声。
「ワシは、お主を止める」
はっきりとした言葉だった。
「知っておるからじゃ。黄泉が、どういう場所かを」
光明は、翔を真っ直ぐ見据えた。
「黄泉は“行く場所”ではない。戻る概念がない」
蘭が息を呑む。
光明は続けた。
「生きて帰れる可能性はない。ゼロじゃ」
断言だった。
「術も、理も、知識も、どれを積み上げても、答えは変わらん」
翔は目を伏せなかった。
「それでも行くと言うなら、それは“覚悟”ではない」
光明の声が、わずかに震えた。
「黄泉に行くとは……死にに行く、ということじゃ」
その言葉に、鉄喜の肩がびくりと跳ねた。
「……」
鉄喜は何も言えなかった。
言いたいことは、山ほどある。
止めたい。
でも──
自分が翔の立場だったら。同じ選択をする。
それが、わかってしまった。
鉄喜は拳を握り、ゆっくりと開いた。
亜紀は、ただ成り行きを見守るしかなかった。
玲那は不安そうに、蘭と翔を交互に見ているだけだった。
「……翔くん」
蘭が再び口を開いた。
小さな声。
「もうやめてよ。変なこと......言わないでよ......」
翔は、しばらく黙っていた。
誰も、急かさなかった。
茶の湯気だけが、静かに立ち上る。
翔は、手にした装束を見下ろした。
父親が死んだ。そうは思えなかった。
一度だけ、強く握り直す。
そして、顔を上げた。
「……悪いな、蘭。それでもオレ行くわ」
蘭が、目を見開いた。
翔は静かに、続ける。
「無理だってことも、わかってる」
光明を見た。
「じいちゃんの言うこと、きっと正しい」
鉄喜にも、視線を向ける。
「……それでも」
翔は、ゆっくりと振り返った。
迷いのない目だった。
「オレは決めたんだ」
一瞬の静寂。
そして、低く、はっきりと。
「黄泉へ行く。お父を、連れ戻す」
誰も、もう止められなかった。




