第84話 戻らない朝
主人のいなくなったペットショップの朝は静まり返り、小鳥の鳴き声が時折、寂しく響いていた。
コトッ。
カチャ。
小さな音が、奥のリビングで響いていた。
光明は急須を置き、湯呑みを両手で包んだ。
無意識に、卓の向かいを見る。
そこには、もう誰も座っていない。
急須の横に置かれた湯呑みは、一つだけ。
──親父殿。
真っ直ぐで、熱い男。
利蔵の顔が、頭の中に浮かぶ。
「……静か、じゃのう」
蘭のアパート。
シャワーから流れる水の音が、蘭の啜り泣きをかき消していた。
シャワールームで立ち尽くす蘭は、風呂場から出てくることができなかった。
湯は熱いはずなのに、指先の感覚がない。
肩に当たる水の重さだけが、やけに痛かった。
何度も息を吸おうとして、うまく吸えない。
肺の奥に、冷たいものが残ったままだ。
「パパ……ごめんなさい。間に合わなかった」
自分の手を見つめ、唇を噛んだ。
鉄喜はバスに揺られ、流れる地元の街の景色を、遠い目で眺めていた。
周囲の学生の話し声が、どこか遠くで響く。
「師匠……」
守ったはずの日常。
失ったものと比べると、胸の奥が苦しくなった。
バスの外では、制服の学生が笑っている。
コンビニの前で、誰かが朝飯を選んでいる。
いつもと、何も変わらない朝。
それが、やけに腹立たしかった。
「こんなもの……」
鉄喜はタオルを顔にかけ、涙を隠した。
利蔵の訃報は、黄泉口神社の音葉、道心にも伝えられた。
道心は何も言わず社殿に上がり、祝詞をあげた。
その声は、ぷるぷると震えていた。
音葉は訃報を聞いた瞬間、言葉を失った。
手にしていたものを取り落とし、遅れて膝が崩れる。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
胸の奥が、きゅっと縮まる。
――ああ。
父親を失った翔の顔が、はっきりと浮かぶ。
その表情は、昔、鏡の前で見た自分の顔と、あまりにもよく似ていた。
誰も悪くないのに。
誰も間違っていないのに。
どうしようもなく、取り返しがつかない。
音葉は、喉の奥からせり上がるものを押さえきれず、顔を両手で覆った。
同じ場所で。
同じように。
ただ立ち尽くすことしかできなかった、あの日の自分が、そこにいた。
「……利蔵さん……」
続くはずだった名前が、声にならない。
代わりに浮かんだのは、翔の横顔だった。
「……翔くん……」
音葉の肩が、小さく震えた。
翔は、いつもの境内にいた。
社殿の前に立ち、そっと目を閉じる。
──迷ったら、目を閉じろ。
利蔵の声が、はっきりと響いた。
土の匂い。
湿った木の匂い。
遠くで響く、鳥の囀り。
翔は、ゆっくりと、深く息を吸った。
パリッ。
何かが割れる、小さな音。
翔が目を開けると、いつの間にか欄干に座り、ポテトチップスを齧るククノチがいた。
「不味い。どうして人間は、こんな毒を喰らうんだ」
ククノチは欄干から飛び降り、ポテチの袋を持ったまま境内の木々を見上げた。
「人間ちゅうのは、どうしてこんなに弱いんだ」
翔はククノチの方へ向き直る。
「ククノチ、あのさ……」
だが、ククノチは言葉を遮った。
「今日は暇だからな。稽古つけてやる」
その言葉を受け止め、翔はニヤリと笑った。
ククノチは最後の一枚を口に放り込み、袋を丸めてゴミ箱に投げ捨てる。
パンパンと手を叩き、翔に向き直った。
「ほら、来い。見てやる」
一瞬の静寂が、境内を包み込む。
翔は言われるがまま腰を落とし、拳を構えた。




