表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/90

第84話 戻らない朝

 主人のいなくなったペットショップの朝は静まり返り、小鳥の鳴き声が時折、寂しく響いていた。


 コトッ。

 カチャ。


 小さな音が、奥のリビングで響いていた。


 光明は急須を置き、湯呑みを両手で包んだ。


 無意識に、卓の向かいを見る。

 そこには、もう誰も座っていない。


 急須の横に置かれた湯呑みは、一つだけ。


 ──親父殿。


 真っ直ぐで、熱い男。

 利蔵の顔が、頭の中に浮かぶ。


「……静か、じゃのう」


     


 蘭のアパート。


 シャワーから流れる水の音が、蘭の啜り泣きをかき消していた。

 シャワールームで立ち尽くす蘭は、風呂場から出てくることができなかった。


 湯は熱いはずなのに、指先の感覚がない。

 肩に当たる水の重さだけが、やけに痛かった。


 何度も息を吸おうとして、うまく吸えない。

 肺の奥に、冷たいものが残ったままだ。


「パパ……ごめんなさい。間に合わなかった」


 自分の手を見つめ、唇を噛んだ。


     


 鉄喜はバスに揺られ、流れる地元の街の景色を、遠い目で眺めていた。


 周囲の学生の話し声が、どこか遠くで響く。


「師匠……」


 守ったはずの日常。

 失ったものと比べると、胸の奥が苦しくなった。


 バスの外では、制服の学生が笑っている。

 コンビニの前で、誰かが朝飯を選んでいる。


 いつもと、何も変わらない朝。

 それが、やけに腹立たしかった。


「こんなもの……」


 鉄喜はタオルを顔にかけ、涙を隠した。


     


 利蔵の訃報は、黄泉口神社の音葉、道心にも伝えられた。


 道心は何も言わず社殿に上がり、祝詞をあげた。

 その声は、ぷるぷると震えていた。


  音葉は訃報を聞いた瞬間、言葉を失った。

 手にしていたものを取り落とし、遅れて膝が崩れる。


 息を吸おうとして、うまく吸えなかった。

 胸の奥が、きゅっと縮まる。


 ――ああ。


 父親を失った翔の顔が、はっきりと浮かぶ。

 その表情は、昔、鏡の前で見た自分の顔と、あまりにもよく似ていた。


 誰も悪くないのに。

 誰も間違っていないのに。

 どうしようもなく、取り返しがつかない。


 音葉は、喉の奥からせり上がるものを押さえきれず、顔を両手で覆った。


 同じ場所で。

 同じように。

 ただ立ち尽くすことしかできなかった、あの日の自分が、そこにいた。


「……利蔵さん……」


 続くはずだった名前が、声にならない。

 代わりに浮かんだのは、翔の横顔だった。


「……翔くん……」


 音葉の肩が、小さく震えた。


 翔は、いつもの境内にいた。


 社殿の前に立ち、そっと目を閉じる。


 ──迷ったら、目を閉じろ。


 利蔵の声が、はっきりと響いた。


 土の匂い。

 湿った木の匂い。

 遠くで響く、鳥の囀り。


 翔は、ゆっくりと、深く息を吸った。


 パリッ。


 何かが割れる、小さな音。


 翔が目を開けると、いつの間にか欄干に座り、ポテトチップスを齧るククノチがいた。


「不味い。どうして人間は、こんな毒を喰らうんだ」


 ククノチは欄干から飛び降り、ポテチの袋を持ったまま境内の木々を見上げた。


「人間ちゅうのは、どうしてこんなに弱いんだ」


 翔はククノチの方へ向き直る。


「ククノチ、あのさ……」


 だが、ククノチは言葉を遮った。


「今日は暇だからな。稽古つけてやる」


 その言葉を受け止め、翔はニヤリと笑った。


 ククノチは最後の一枚を口に放り込み、袋を丸めてゴミ箱に投げ捨てる。


 パンパンと手を叩き、翔に向き直った。


「ほら、来い。見てやる」


 一瞬の静寂が、境内を包み込む。


 翔は言われるがまま腰を落とし、拳を構えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ