第82話 百鬼夜行【神話】
河原を覆っていた影が、一斉にうねった。
だが、その先へ進ませるものは、何もなかった。
「──下がれ」
低く、よく通る声。
光明が、前に出た。
次の瞬間、空気が裂けた。
青白い光が周囲に迸り、押し寄せていた影がまとめて弾き飛ばされる。
「な……!」
鉄喜は目を見開いた。
さっきまで、あれほど数で押してきた悪鬼たちが、まるで紙屑のように吹き散らされていく。
「すげえ……」
光明は、一切振り返らない。
「集中じゃ。まだ終わっておらん」
鉄喜は歯を食いしばり、再び拳を構えた。
「……はい!」
金色のオーラが揺れながらも、確かに灯る。
鉄喜は影の群れに突っ込み、必死にその豪腕を奮い続けた。
一方、利蔵は、その場に立ち尽くしていた。
「……利蔵?」
光明が、異変に気づく。
利蔵は、両手を見つめていた。
いつもなら、迷いなく炎を呼ぶはずの手。
「おかしい……」
かすれた声。
「……出ん」
何も、起きない。
火の粉一つ、灯らない。
「カグツチの……炎が……」
利蔵の声が、震えた。
その瞬間。
空気が、冷えた。
酒呑童子が、ゆっくりと視線を向ける。
「……ほう」
楽しげな声。
光明は、はっきりと眉をひそめた。
「……黄泉の気配が濃いと思うたが」
そして、低く言い放つ。
「イザナミ様か」
その名が、夜気に落ちた。
酒呑童子は、口角を上げる。
「さあなぁ。せやけど……嫌われとる炎っちゅうのは、確かや」
光明は、即座に叫んだ。
「利蔵! 下がっておれ!!」
「……っ!」
利蔵が一歩、退いた瞬間。
地面の影が、利蔵の足元に絡みついた。
「なにっ……!?」
夜行の闇へ引きずり込もうとする力。
「お父!!」
翔の声が飛ぶ。
酒呑童子は、闇に引き摺り込まれていく利蔵を眺め、手を叩いた。
「フハハハハ! 愉快な夜や! 黄泉の国で許しをこうてこい!」
その刹那。
翔は、ニヤリと笑った。
しばらく現れていなかった顔の紋様。
その色は、赤ではなく、緑に浮かび上がっていた。
「おっさん、よそ見してんじゃねえ」
酒呑童子が振り向いた瞬間、緑の閃光がその顔面を貫いた。
「クハッ! バカな!」
翔の目は緑に輝き、倒れた酒呑童子を見下ろす。
「……やるやん」
酒呑童子は、翔に両手を見せた。
翔は酒呑童子の首を掴むと、地面に押しつけた。
地面が揺らぎ、空間が軋んだ。
「自然とは──オレのこと。土に還れ──おっさん」
ククノチが言った言葉を口ずさむ。
「聞け。感じろ」
「グワァァァァ!!」
酒呑童子は、地面にできた裂け目の闇に、断末魔を上げながら消えていった。
「……終わった?」
鉄喜が、呆然と呟く。
一瞬の、安堵。
その時だった。
「……ああ」
利蔵が、静かに笑った。
「なるほどな……まだ、許されとらんみたいだ」
「師匠……?」
影が、腰まで絡みついている。
「オレは……どうやらここまでみたいだ」
その身体が、ゆっくりと沈み始めた。
「待って!!」
駆け込んできたのは、蘭だった。
腕を伸ばし、必死に利蔵を掴もうとする。
「やめて!! パパ! 連れて行かないで!!」
だが、指先は空を掴む。
「蘭ちゃん、ありがとう。翔を……頼むな」
利蔵は、穏やかに微笑んだ。
影が、完全に利蔵を飲み込む。
「お父ーーーー!!」
翔の叫びは、闇に吸い込まれた。
百鬼夜行、その闇は後退していく。
まるで、目的を果たしたかのように。
河原には、静寂だけが残った。
翔は、膝をついた。
勝ったはずだった。
だが。
失ったものは、あまりにも大きい。




