第76話 引き金
光明はリビングで利蔵と向き合っていた。
「やはり……悪鬼は翔を狙っておるのかのう」
利蔵は光明にお茶を差し出した。
「予想通り、ですか?」
「いや、狙うという意味が違った」
利蔵は目を見開いた。
「意味?」
「悪鬼の動きは、翔を殺そうとしているようには見えぬ」
利蔵は、汚れた翔の服を見た。
「翔が創り出した、あの公園での歪み……あれは?」
光明は長いヒゲを撫で、ため息をついた。
「わからん……。じゃが、あの歪みのおかげで、神が動いたのは事実じゃ」
「オオクニヌシ……様」
光明は、利蔵の顔を覗き込んだ。
「西都に行っておるのじゃな?」
「はい」
──引き金にならんとええがのう。
⸻
西都の長い夜。
──ミシッ
廊下で音がした。
翔と蘭は、同時に廊下へ飛び出していた。
廊下の奥、玄関へ続く方向から、かすかな笑い声が聞こえた。
──クク……
──ヒヒ……
子どものような、老人のような、性別の判別がつかない声。
翔は、思わず構えた。
玄関の引き戸が、半分だけ開いている。
外には、霧のような闇が立ち込めていた。
そして、その闇の中に──
何かが、立っていた。
背丈は人ほど。だが、首がやけに長く、顔が提灯のように赤い。
片腕が異様に長く、地面を引きずっている。
「……悪鬼……」
その時、蘭が翔に背中を合わせた。
「翔くん……こっちも」
天井に逆さまに張り付いた奇怪な悪鬼。
腐った大きな般若の顔から、どろんと長い舌が垂れている。
壁をべろりと舐めると、その壁に黒い跡が残った。
「蘭……やるぞ!」
「うん!」
翔は赤に緑が混ざるオーラを身にまとい、
蘭は青白いオーラを、その両拳に纏った。
蘭は翔のオーラの色を見て、小さく呟いた。
「翔くん、やっぱり少しずつ変わってきてる……」
しかし、何か様子がおかしい。
悪鬼は、襲ってこなかった。
ただ、近づいてくる。
一歩。
また一歩。
それだけで、空気が腐っていく。
畳が軋み、呼吸が重くなる。
翔は拳を強く握った。
だが、違和感が拭えない。
「襲う気……ないのか……?」
その時。
玄関の外から、鈴の音がした。
──チリン。
はっきりとした、現実の音。
悪鬼たちが、一斉に動きを止めた。
次の瞬間、女将の声が響いた。
「ここで戦ってはならぬ」
玄関に立っていた女将は、手に古びた帳面を持っていた。
それを、床に、ぱん、と叩きつける。
空気が、揺れた。
悪鬼たちは、不満そうに唸りながら、霧へと変わり、空気に溶けていった。
霧が晴れると、玄関の外は、何事もなかったような夜の庭だった。
「……今の……」
「困るのぉ……最近は、悪鬼が平気で神域を犯すようになっておる」
蘭の眉がピクリと動いた。
「ここが……神域?」
女将は、帳面を閉じた。
「悪鬼が黄泉に突き動かされておる。行列の本体は、まだ遠い。じゃが……」
女将は、翔をまっすぐ見た。
「流れは、おそらく決まっとる」
「……どこへ?」
女将は、少しだけ視線を逸らした。
「お主、どこから来た?」
その意味が、翔にはわかった。
百鬼夜行は、道筋を見つけた。
「まさか……地元に」
女将は、否定しなかった。
⸻
翌朝、何事もなかったかのように、生徒たちは笑いながらバスに乗り込んだ。
蘭は、見送る女将に問いかけた。
「女将さん、ここは神域だって。こんな街の中に?」
女将は微笑んだ。
「神域は至る所に残っておる。人が忘れん限りはなぁ」
翔が、女将の顔を覗き込んだ。
「聞くまでもないけど……女将さんは……」
女将は静かに頷き、手を振った。
「若いサニワ三人に──クシナダヒメのご加護を」
女将は、バスが見えなくなるまで、頭を下げていた。




