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第75話 呼ばれる夜

翔は、自分の呼吸の音で目を覚ました。


畳の匂い。

旅館の天井。

──まだ、夜だ。


胸の奥に、まだ何かが引っかかっている。


「……さっきの夢、じゃねえよな……」


身体は動く。頭も痛くない。

ただ、心だけが、どうにも気持ち悪い。


隣の布団では、鉄喜が大の字で眠っている。

何も知らず、何も感じていない顔だ。


──それが、むしろ怖かった。


翔は静かに起き上がり、廊下に出た。

旅館の夜は、異様なほど静かだった。

客の多い宿のはずなのに、物音がしない。


その時。


「……起きとったかい」


声がした。


翔が振り向くと、廊下の奥に、駅前で出会った老婆が立っていた。


「……あんた……」

「この宿の者じゃ。朝は驚かせて悪かったの」


女将は、廊下の灯りを一つ、そっと落とした。

薄暗くなった空間で、低い声が響く。


「昨夜は、庭に出たろう」


翔は、言葉に詰まった。


「……覚えとるか」

「……途中まで」


彼女は、廊下の窓を指さした。

外は、夜の闇に沈んでいる。


「わしも見たのは……初めてじゃ」

「何が」

「夜が、歩き出す」


翔の背筋に、冷たいものが走った。


「百鬼夜行……蘭が呟いてた」


「昔話で聞いたことあるかのぉ。なぜ起きたかはわからぬが」


翔は、拳を握った。


「……オレが来たから、ですか」


女将は、しばらく翔を見つめたあと、答えた。


「“引き金”になる者は、いつの世にもおる」


それだけだった。


「じゃがの……」


女将は、静かに続けた。


「お前さん一人で、夜が歩き出すほど、この街は単純じゃない」


少し、救われる言葉だった。

同時に、もっと厄介だとも思った。


「……オレを、誘っていた?」


女将は、ほんの一瞬だけ、笑った。


「お友達に感謝じゃの。手を引かれれば、戻ってはこれぬと伝わる」


翔は息を飲んだ。


「今日は、外に出ない方がいい」

「夜が明けるまでは、な」


「……はい」


その時、廊下の向こうから足音がした。


「翔ー? 何してんだ、こんな時間」


鉄喜だった。

眠そうな顔で、頭を掻いている。


「トイレだよ」


翔は即座に答えた。

鉄喜は女将に気づかず、あくびを噛み殺す。


「ふーん……なんか、変な夢見たわ」

「どんな?」

「わかんねー。ただ、うるさかった」


それだけだった。

女将は、鉄喜を一瞥し、何も言わなかった。


「ほら、部屋戻るぞ」


鉄喜が言う。

翔は、最後にもう一度、女将を振り返った。


だが──


そこには、誰もいなかった。


まるで、最初から存在しなかったかのように。


部屋に戻った後も、翔はなかなか眠れなかった。


蘭も同様だった。

何かを必死で検索する蘭のスマホの光だけが、部屋を照らしていた。


「百鬼夜行……」


蘭はふと、スマホの時刻を見た。


「もうこんな時間……」


しばらく目を閉じたが、どうしても寝付けない。


「翔……くん」


蘭は再びスマホを見た。


──時間が……進んでいない!


遠くで音がした。


──カラン。

──コロン。


提灯が、まだどこかで揺れている。

百鬼夜行は、まだ探している。


その瞬間だった。


旅館の外──

石畳の向こうを、何かが横切った。


人影のようで、人ではない。

提灯の明かりに照らされ、影だけが異様に長い。


角のある影。

布を引きずる影。

一体、ではない。


だが誰も騒がない。

誰も気づかない。


宿泊客は、眠り続けている。


翔の喉が、音を立てた。


「……今の……」


「翔くん!」


蘭は翔の部屋に駆け込んだ。


次の瞬間、影は塀の向こうへ溶けるように消えた。


女将の声が、どこかで重なった気がした。


──“通り道から、外れたモンは、街に残る”


翔は悟った。


百鬼夜行は、

もう、始まっている。


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