第74話 夜を歩くもの
夜中、蘭は、ふと目が覚めた。
理由はわからない。
だが、胸の奥がざわついていた。
旅館の部屋は静まり返っている。
障子越しに見える廊下の灯りだけが、ぼんやりと揺れていた。
「……翔くん」
嫌な予感が、背中をなぞった。
そのときだった。
廊下の方から、微かな足音がした。
──すり……すり……
裸足が畳を擦るような、奇妙に規則正しい音。
蘭はそっと障子を開けた。
旅館の廊下。
夜灯に照らされて、翔の背中が見えた。
「……翔くん?……どこ行くの?」
呼びかけても、反応はない。
翔は、まるで夢遊病者のように、ふらふらと歩いていた。
足取りは不安定なのに、迷いがない。
──呼ばれてる。
蘭は直感した。
廊下の奥、非常口へ続く扉が、わずかに開いている。
外から、冷たい夜気が流れ込んでいた。
「待って!」
小さく声をかけ、蘭は後を追う。
扉の外は、旅館の裏庭だった。
昼間は手入れされた庭園のはずが、夜の闇に沈み、景色がボヤけている。
翔は、その奥へ進んでいく。
その時──
音がした。
──カラ……カラ……
──カラン……コロン……
下駄の音。
それも、一つや二つではない。
複数の足音が、ゆっくりと円を描くように動いている。
蘭は息を呑んだ。
庭の向こう、木々の影が揺れている。
だが、風は吹いていない。
影が、勝手に動いている。
翔は立ち止まった。
その背中越しに、低い囁きが重なって聞こえてくる。
──……こっち……
──来い……
声は、男とも女ともつかない。
だが、不思議と耳障りではなかった。
──優しい。そう錯覚してしまいそうなほど。
「……翔くん」
蘭は、震える声で呼んだ。
その瞬間、翔がゆっくり振り返った。
瞳が、いつもより暗い。
「……蘭?」
声は、翔だった。だが、焦点が合っていない。
「何してるの……?」
蘭は、一歩踏み出す。
次の瞬間。
景色が、ずれた。
庭の向こうに、提灯の列が浮かび上がる。
赤、青、白。
揺れる灯りの下に、人ではない影が連なっていた。
長い腕。
歪んだ顔。
獣のような背中。
だが、誰も襲ってこない。
ただ、歩いている。
列の先頭に立つ影が何も言わず、翔に向かって手を差し出した。
翔の足が、一歩、前に出た。
「ダメッ!」
蘭は叫び、翔の手首を掴んだ。
その瞬間、熱が走る。
「……っ!」
蘭の頭に、断片的な映像が流れ込んだ。
──夜の都。現在じゃない。
──無数の鬼。
──逃げ惑う人々。
「……百鬼夜行……」
蘭の唇から、言葉が零れた。
その名を口にした瞬間。
提灯の灯りが、一斉に揺れた。
影たちは、ゆっくりと後退していく。
突然、翔の身体から、力が抜けた。
「……あれ……?」
正気に戻った翔が、膝をつく。
「……オレ、何して……」
蘭は、翔を抱き寄せた。
「……誘われたの......多分」
庭には、もう誰もいない。
だが──
地面には、無数の足跡だけが残っていた。
翔の胸の奥で、何かがまだ歩いていた。
それがどこへ向かう列なのか、彼はまだ知らない。
西都の夜は、まだ終わらない。
百鬼夜行は、目を覚ましたばかりだった。




