第59話 ぶつかる心の刃
淡く光る紫の刃が、空気を裂いて形を成した。
刀身は細く、だが寒気が走る“刃”だった。
蘭の眉が、わずかに動く。
「それでいいの」
音葉は何も言わず、一歩踏み出す。
その瞬間、空気が変わった。
蘭は反射的に氷刃を振るった。
音葉の首を狙った一閃。
──だが。
紫の刃が、音もなく蘭の氷刃を通り過ぎた。
「ッ……!」
真っ二つに切断された蘭の刃。
「蘭さん」
その声に、蘭の奥歯が軋んだ。
「呼ばないで!」
水が地面から噴き上がり、空中で凍結する。
無数の氷刃が、音葉へと降り注いだ。
音葉は、刀を持たない手を掲げた。
音もない衝撃波が、降り注ぐ刃を吹き飛ばす。
バラバラと、砕けた氷が地面に散る。
「……ッ!」
蘭は息を荒げた。
「その目は、なんなのよ!」
怒鳴りながら踏み込む。
距離を詰める。
氷刃と紫刃がぶつかるたび、火花のような光が散った。
音葉は、防ぐが打ち返さない。
それが、余計に蘭を苛立たせた。
「同情?
可哀想とか思ってんの?
アタシのこと……」
言葉が、途切れる。
氷刃が、わずかに震えた。
音葉は、その揺れを見逃さなかった。
「……怖いんだね」
次の瞬間。
蘭の氷刃が、音葉の肩をかすめた。
その手元を、音葉が打つ。
蘭の氷刃は、再び砕けた。
音葉は、一歩前に出た。
「私は、蘭さんを否定しない」
紫の刃を振り上げる。
「でも──」
音葉の声が、わずかに低くなる。
「自分を壊そうとするなら、止める」
蘭の瞳が、大きく揺れた。
振り下ろされた紫の刃は、
蘭の首めがけて、美しい弧を描く。
「……っ!」
蘭の首に刃が触れる瞬間、
その弧は──
──消えた。
静寂。
遠くで、観光客の笑い声が戻ってくる。
蘭は俯いたまま、拳を握り締めていた。
「最悪……まだ手、抜いてる」
それだけ言うと、蘭は背を向けた。
振り返らなかった。
音葉は、蘭の背中を見送った。
──蘭さんも。
音葉は、小さく息を吐く。
「蘭さん……バレてるよ」
⸻
呉服屋の中は、外の賑わいが嘘のように静かだった。
分厚い暖簾の向こうで、通りの喧騒はくぐもり、
代わりに、古い木の床が軋む音と、反物が擦れるかすかな音だけが残っている。
畳の上には、色とりどりの反物が整然と積まれ、
染料と古木が混ざった、少し甘く、少し埃っぽい匂いが漂っていた。
翔は、その場に足を踏み入れた瞬間、
胸の奥が、ふっと落ち着くのを感じていた。
──ここだけ、時間が遅い。
そう思わせる空間だった。
カウンターの奥で、古い帳面をめくっていた女店主が顔を上げる。
「いらっしゃい……おや」
視線が、翔の顔で止まった。
「あなた……翔くん?」
「え?」
翔は驚いて店主を見た。
「はい……」
「覚えてなーい?」
翔は思い出せなかった。
でも、なぜかその美しい店主の目から、懐かしさを感じた。
「小さい頃、三重ちゃんについてよく来てたよ!
覚えとらんわねえ、随分小さかったから」
「かーちゃんに……」
突然、母親の名を聞いて、翔は目を見開いた。
「私は、三重ちゃんの友達なんだ」
「友……達」
店主はそう言うと、翔の両頬をギュッと押さえた。
「よく見せて、顔!」
「え!?」
ふわりと香る、心地いいアロマの匂いが翔を覆った。
「うん、うん。その目! 三重ちゃんそっくりだ」
店主は、そのまま翔をカウンター越しに抱きしめた。
「え、いや……あの……」
翔は動けなかった。
「うん。三重ちゃん……ちゃんと、私、感じるよ」
そのまま、時が止まったような静寂が、店内を包み込んだ。
「あの……すいません」
翔が思わず口を開くと、店主は慌てて手を離した。
「わ! ごめんごめん、私ったら、つい」
店主の目は、うっすら赤く染まっていた。
翔は、気まずい空気を壊すように、
利蔵から頼まれた包みをカウンターに置いた。
「これ……お父が」
店主は顔を手で仰ぎながら、頷いた。
「うん、うん! 聞いてる!
またいつでも取りに来てって、利蔵ちゃんに伝えておいてね!」
「はい」
翔が背を向けると、店主は翔を引き留めた。
「あ! 翔くん、ちょっと待ってて!」
そう言うと、店主は店の奥に消えた。
その呉服屋だけ、
相変わらず時間が、一拍、遅れて流れていた。




