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第58話 逃げないの?

 蘭の中の闇は、日を追うごとに重さを増していた。

 抱えきれない。でも、動けない。


 胸の奥に沈んだ暗いもの。姿は見えない。

 でも、息をするたび、確かにそこに在る。


──御守り……持っててくれたんだ。


 音葉の声が響いた。

 蘭は唇を噛んだ。


「ムカつく」


 言葉にした途端、怒りだけが浮かび上がった。

 向き先は、まだ見えない。


 蘭は、音葉へ湧き上がる怒りの正体すら見失っていた。


 息が少し荒い。

 気が付いたら、ここにいた。


 黄泉口神社。


 今日の境内は観光客で賑わい、手を合わせる音よりも、笑い声の方がよく響いていた。


 神聖な空気は、人の熱に押しやられ、どこか薄く、遠く感じられた。


 その中で、蘭だけが、ひどく浮いていた。


 社殿へ続く参道のど真ん中をズカズカと進む蘭を、参道をホウキではいていた道心が見つけた。


「おお! 蘭ちゃん! 今日は一人でどうしたんだい?」


 蘭は横目でチラリと道心の顔を見た。


「喧嘩!」


 蘭は吐き捨て、そのまま足も止めず、社殿へ向かった。


 道心はポッカリ口を開け、苦笑いを浮かべた。


「ア、アハハ……喧嘩って、またまたぁ……」



 社務所の奥で、御朱印を書く音葉。

 目の前に立つ影に、ハッと筆を止めて見上げた。


 冷たく見下ろす蘭と目が合った。


「らっ、蘭さん!?」


 蘭は音葉に顔を近づけた。


「ちょっと、面貸しなさいよ」


「つ……ら?」


 音葉は、その意味をわかっていなかった。


「はい! すぐ済ませるから、待ってて」



 再び、あの古戦場に立った二人。

 黄泉口山脈から、冷たい風が吹き下ろした。


「アタシ……アンタの事が嫌い」


 唐突な蘭の言葉に、音葉は静かに返した。


「うん、聞いたよ」


 蘭は音葉を睨んだ。


「良い人ぶってる、その感じも大嫌い」


「知ってる」


 音葉は笑顔で返す。


「アンタ見てると、イライラすんの」


「ごめんね……」


 二人の間に、間が落ちた。

 蘭は、足元の砂利を一度、踏み鳴らした。


「アタシと、喧嘩してくんない?」


 音葉は視線を落とした。


「喧嘩は嫌だな。でも……」


 音葉は蘭に背を向けた。

 広場の端に刺さっていた古い錫杖を取り出し、蘭に向き直る。


「……手合わせなら、いいよ」


 蘭は表情を変えなかった。


「……なんで、逃げないのよ」


 音葉は蘭の目を覗き込んだ。


「……逃げてほしいの?」


 一瞬、息を飲んだ。

 蘭は視線を逸らし、

 答える代わりに、氷刃を作り出した。


「アタシ、手加減しないから」


 音葉は錫杖を構えると、笑った。


「うん」



 躊躇うことなく踏み込む蘭。

 閃光のような青の一点が、音葉の顔に向かう──


 音葉は蘭の突きを、体を逸らして躱した。

 氷刃は音葉の喉元をかすめ、皮膚を裂かず、空気だけを切った。


 氷刃が振るわれるたび、

 空気が白く裂け、冷気が地面を舐めた。


 音葉は受け流しながら、

 踏み込めば反撃できる距離を、あえて保つ。


 砂利を踏む音が、二人分、重なって響く。


 しかし、止まらない蘭の斬撃に、

 音葉は一歩、また一歩と後退した。


「くっ……蘭さん……本当に強い」


 その時、蘭はピタリと攻撃をやめた。


「気に入らない……そういうところが、本当に、気に入らない」


 音葉は何も言わなかった。

 蘭は、悲痛とも聞こえる叫びをあげた。


「アンタ……本気でやんなさいよ!!」


 音葉は何も言わず、錫杖をそっと置いた。


 静けさを取り戻した古戦場。

 遠くで、観光客の声が響いていた。


 音葉は静かに腰元に手をやり、

 刀を抜くように、スッと手を振った。


 その手には、淡く光る紫の刃が現れていた。


「わかりました」


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