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第57話 何もねえよ

「翔、帰り道こっちだぞ?」

「ん、ああ。お父に使いを頼まれて、今日は街から帰るわ」


 鉄喜はニタァと笑った。


「街といえば、オレの出番じゃないか! オレは詳しいぞ」


 確かにその街は、鉄喜が中学時代、先輩達と悪さの限りを尽くしたテリトリーでもあった。


 任せろと言わんばかりの鉄喜を、翔は無視して背を向けた。


「じゃあな」


「お、おーい! 待てって!」


 鉄喜は慌てて翔の後を追いかけた。


 夕方の街は、今日も何事もない顔をしていた。



 街の商店街には、ガラス張りのオシャレなカフェや雑貨屋が並ぶ一方で、軒先に木箱を積んだ八百屋や、色あせた暖簾を掲げる焼き物屋も残っていた。

 新しい匂いと、どこか懐かしい匂いが入り混じる通りは、夕方になると駅へ向かう学生達でごった返していた。


 翔と鉄喜は、商店街の遊歩道のど真ん中を歩く。

 目立つ赤髪と、金髪の大男を避ける学生達。


「おい、あれ大森鉄喜じゃね?」

「ああ、確かギャングのメンバーだとかって」


 風のように通り過ぎるヒソヒソ話は、鉄喜の耳に届いたが、すぐに雑音へと溶けた。


 聞き慣れた類の噂だった。



 翔はふと、脇道にある防火槽を覗き込んだ。


「お、鯉だ! 鉄喜、鯉がいるぞ!」


 水面を割る赤黒い影に、翔の声が少しだけ弾んだ。


 いつも動物を見つけた時だけ、目を輝かせ、その瞬間だけ人との壁を消し去る翔を見ながら、鉄喜は目を細めた。


「お前……本当に動物が好きなんだな」


 この時間だけは、面倒な現実から引き離される気がした。


 防火槽から顔を上げた翔は、名残惜しそうにもう一度水面を見てから、歩き出した。



 翔は呉服屋の前で足を止めた。


「ここだ」


 鉄喜は看板を見上げた。


「スクナ……呉服店?」

「ああ。お父から預かったもん、預けるだけだ」


 そう言うと、翔は店の中に入っていった。


 鉄喜は、店の向かいにある小さな空き地のベンチに腰掛けた。



 その時、鉄喜を囲う影が現れた。


「おう、鉄喜、久しぶりじゃねえか!」


その声を聞いた瞬間、頬の筋肉が無意識に強張った。


 鉄喜の地元の先輩グループだった。


「お久しぶりです!」


 上下関係、勢力争いの厳しい鉄喜の地元。

 鉄喜は持ち前の人の良さと、その腕力で皆とは良好な関係を築いていた。


「お前、最近付き合い悪いじゃねえか!」

「いやあ、すいません! 慣れない高校なんてとこ行っちゃってるからですかね! リズムが合わなくて!」


 すると、横にいた一人が鉄喜に顔を近づけた。


「お前、喧嘩に負けた赤髪のチビについて回ってるらしいじゃねえか?

 どういうことだよ?」


 鉄喜は珍しく、めんどくさそうな顔を覗かせた。


「いやぁ、面白えやつなんですよ。

 まだ勝負はついてないんですけどね」


 鉄喜の目の前に立つ数人の先輩達が、あまりにも滑稽すぎて、風景画の描写の一つのようにすら見えた。


 いつもなら自然に笑顔を作るのに、ほんの少しだけ力が要った。

 胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


「たまには会合、顔出せよ、お前!」

「そいつも面白いなら連れてこいよ! 面通し、必要だろ?」


 鉄喜は顔を背けた。


「うぃーす。じゃ、オレはこれで」


 翔が店から出てきたのを見つけると、鉄喜は先輩の肩をやさしく押し退けて、ベンチを離れた。


 遠くから、まだ鉄喜に声が届いていた。


「鉄喜! オレ達といた方が身のためだぞ!」


その言葉が、忠告なのか脅しなのか、区別がつかなかった。

 でも、どうでもよかった。


 翔は空き地から歩いてきた鉄喜と目が合うと、問いかけた。


「なんかあったか?」


 答えも聞かず、翔は背を向け、駅の方へ足を向けた。

 鉄喜は、翔の背中を見つめながらニコリと笑った。


「ハハ、何もねえよ。帰ろうぜ」


 いつも見慣れた商店街は、穏やかな空気が流れていた。


──その時の鉄喜は、まだ、この街が牙を剥くとは思っていなかった。

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