第51話 神域に住む者
利蔵と光明は再び、黄泉口の古戦場に立っていた。
遥か遠くに見える黄泉口山脈からは、残暑には不釣り合いな冷たい風が降りてきていた。
利蔵が身震いする。
「山脈からの吹き下ろしは、ほんとに寒いですなぁ」
「まさに、黄泉口……じゃな」
利蔵は腕を組んだ。
「誰も進んで立ち入ろうとしない山……うぅ、寒いのが苦手なオレにはちょっと──」
その時、後ろから道心が駆け寄った。
「利蔵ちゃん! 光明殿!」
「おお、立花のおっちゃん! 悪いが、お邪魔してるよ! 音葉ちゃんは?」
「はは、おかげさまで元気に学校に行ったよ。翔くんはどうだい?」
「ああ、ぶつぶつ文句言いながら、鉄喜くんとなんとか学校に行ったさ。ガハハハ!」
「そうですか! それはよかった!」
そう言うと道心は光明の方を向き、声のトーンを落とした。
「それで、光明殿……今日は、何用で?」
「ちょっと旧友に、の」
道心は一瞬だけ、山の方へ目をやった。
「それでは、一合目まで」
利蔵は少し慌てた様子で光明を見た。
「親父殿、まさか登るので?」
「ちょっとした散歩じゃ」
道心は、躊躇うことなく神域を跨ぐ光明と、古戦場を何度も振り返る利蔵に頭を下げて見送った。
神域を跨いだ途端に、残暑とは思えないほどの冷たい風が背中を押した。
まるで、その奥へ二人を誘うかのように。
足裏の感触が、ふっと軽くなる。
地面に立っているはずなのに、どこか別の場所に足を置いたような感覚。
「寒っ」
震える利蔵を見て、光明は笑った。
「すぐそこに集落がある。もう少しじゃ」
「集落? こんな場所に人が?」
「数件じゃがな。ほぼ自給自足で暮らしておる、風変わりな方々じゃ。ほほ」
一合目まで続く登山道を、光明は脇へ逸れた。
その瞬間、さっきまで感じていた寒さは、嘘のように消し飛んだ。
「ほほ、着いたぞ」
目の前に広がる光景に、利蔵は目を見開いた。
「へえ……知らなかったなぁ」
数軒の古民家。
そこから煙が立ち昇る。
小さな田んぼと畑。鶏の声も聞こえた。
日本の原風景を小さく切り取ったような、美しい集落だった。
利蔵は集落に足を入れた瞬間、空気の重さが変わったことを感じた。
「……ただの集落じゃないねぇ」
集落の奥にある一際大きな窯の前にいた人影は、二人に気付くと、こちらへ手を振りながら走ってきた。
「光明さん、ひっさしぶりだなぁ!」
大柄の利蔵よりも一回り大きく、長い無精髭を蓄えた、山男のような風貌。
服やその太い腕は、泥だらけだった。
「ゼンさん、久しぶりじゃの!」
珍しく、光明は声を弾ませた。
全さんと呼ばれた大男は、利蔵の方へ向き直した。
「そちらの方は?」
「利蔵と申します! 親父殿がお世話になっております!」
全は、利蔵の顔をじぃっと覗き込んだ。
「キミは……なるほど」
一瞬、全の視線が、利蔵の奥を覗き込んだ。
「……なるほど。カグツチか! それはそれは! ワッハッハッハ!」
「もしや、全さんもサニワ──」
利蔵が問いかける前に、全は利蔵の肩を力強く叩き、古民家へ案内した。
「どうぞ! どうぞ! お茶を出しますよ!」
利蔵は、珍しく圧倒されていた。
「ハハハ、豪快な方だなぁ!」
かなり年季の入った古民家。
物は多いが、こぎれいに整頓されており、どこか懐かしい空気が漂っていた。
「ささ、飲んでください! いやあ、嬉しいなぁ! 久しぶりに会えて!」
「そうじゃの」
利蔵は、出された茶碗を覗き込んだ。
「変わった茶碗だなぁ」
「利蔵や、全さんは陶芸家なんじゃ」
利蔵は、全の顔を覗き込んだ。
「ほぉ! そりゃすごいですねぇ」
しばし雑談を楽しんだ三人。
全は、光明の茶碗にお茶を足すと、静かに問いかけた。
「ところで光明殿。下界の様子は、変わりないかね?」
湯呑みを置く音が、やけに大きく響いた。
それだけで、場の空気が一段、沈んだ。
「……変わり、のう……」
利蔵は、声のトーンが変わった全に目をやり、ギクリとした。
──眼力。いや、覇気。
視線を向けられただけで、体の奥がきしむ。
瞳の奥に、底知れぬ強さを感じた。
さっきまでの、豪快だが人を包み込むような暖かさが、一瞬だけ──消えた。
利蔵は、思わず息を呑んだ。
「親父殿……この方は……」
全の背後で、灯りの火だけが、不自然に揺れていた。




