第50話 触れたもの
「鉄喜!」
「マジかよ!」
翔が教室を駆け出すと、鉄喜と蘭が後に続いた。
その瞬間、鈍い衝突音が響いた。
まるで、重い袋を地面に叩きつけたような音だった。
クラスの生徒たちは窓に人だかりを作ってざわついた。
「見ちまった……」
「今……落ちたよな?」
「ヤバいって、マジで!」
翔と鉄喜は階段を駆け降りた。
蘭は踊り場で、翔たちに背を向けた。
──そっちじゃない。
声には、出来なかった。
理屈じゃなかった。
──なぜ?
蘭の胸に去来した、強烈な不安と恐怖。
鼓動が、早くなる。
なぜか──他人事じゃない気がした。
無意識にそう感じた蘭は、階段を降りず、連絡通路を駆けて隣の校舎に向かった。
蘭は走った。
連絡通路を蹴るたび、靴底が乾いた音を鳴らす。
速くなるほど、鼓動が耳の内側でうるさい。
「……まただ」
遊歩道。
あの声。
あの吐息。
──“お姉ちゃん”。
思い出しただけで、喉がきゅっと締まった。
──なんで今、思い出すの?
蘭は三階へ駆け上がり、廊下の人だかりをかき分けながら、屋上へ続く梯子に手をかけた。
一方、翔と鉄喜は、倒れた生徒を見下ろし、現実に直面していた。
「翔……こりゃぁ……」
「ああ……」
横たわる生徒。
アスファルトに広がり続ける血溜まり。
翔は、目を背けるように屋上を見上げた。
屋上の扉を蹴り開けた蘭。
目の前には、何もない。
ただ、ありふれた屋上の光景が広がっていた。
──ひとつの違和感を除いて。
「この感じ……」
蘭は、悪鬼と対峙した時の、胸を締め付けるような悪寒を覚えた。
だが、あの黒い霧も、悪鬼の姿もない。
「……誰も、いない」
風の音だけが、遅れて届いた。
人の気配は、どこにもなかった。
蘭は屋上の縁から下を見下ろした。
人だかりの中に立つ翔と、目が合った。
蘭は、何も言わずに首を振った。
しばらく下を見下ろしていた蘭は、教室に戻ろうと振り返った。
──その時。
胸を、何者かにトンっと押された。
「あ」
蘭の視界に、空が映る。
「ヤバい」
蘭は反射的に体をくねらせ、屋上の縁を掴んだ。
コンクリートが掌の皮を削り、痛みが遅れて熱く広がる。
「蘭!!」
上を見上げて叫んだ翔に、周囲も反応した。
「あぶねえ!」
「あれ誰だ!?」
「転校生のギャルじゃね?」
翔と鉄喜は駆け出した。
「あいつ! 何やってんだよ!」
何かが、蘭を押した。
硬くも、柔らかくもない。
だが、はっきりと──“手”だった。
胸に残った、その感触。
間違いない。
──誰かが、押した。
蘭が這い上がると、屋上のドアが、風もないのにフワッと動いた。
「逃がさない!!」
駆け出した蘭。
ドアに手を伸ばした、その瞬間。
ドアが開いた。
「蘭! 大丈夫か!?」
翔だ。
「翔くん……いま、誰か──」
翔は、首を振った。
その“否定”に、逆に確信した。
蘭は再び、屋上の反対側の縁に駆けた。
「おい、蘭」
「……いない」
たまらず翔が、蘭の肩に手をかけた。
その肩は、小刻みに震えていた。
「おい、蘭! どうしたんだよ! 何があった!?」
「……押された」
「誰に?」
「わからない……でも」
蘭は言いかけて、口をつぐんだ。
思い当たることは、あった。
だが、それとこの件を繋げたくないと思った。
それを認めたら、
自分の足元が、全部崩れる気がした。
それでも。
胸元に残った違和感だけは、消えなかった。
まるで、そこに──
まだ、誰かの手が置かれているみたいに。




