第49話 宙を舞うまで
「霧島ぁ!大森ぃ!お前ら入学式に問題起こしたこと忘れねえぞ!見てるからなぁ!」
大声で絡んでくる生徒指導の教師。
その背後には、何もない。
悪鬼の気配は、感じられなかった。
「ま、まあまあ先生。もう済んだことですし、そんなこと言わなくても」
反対に、人の良さそうな教頭の足元には、
じっとりとした黒い霧が、地面に染み込むようにまとわりついていた。
──逆だろ。
翔は、喉の奥に引っかかるものを感じていた。
悪鬼の有無は、
その人の言葉や態度と、必ずしも結びついていない。
それどころか、
何事もない顔で日常に溶け込んでいることこそが、一番、気味が悪かった。
昼休みの教室は、騒がしかった。
購買の袋を漁る音。
椅子を引く音。
他愛のない噂話。
──いつも通りだ。
そんな“いつも通り”を切り裂くように、翔の教室前方のドアが勢いよく開く。
「翔!飯食おうぜ!」
あの停学以降、隣のクラスに配置された鉄喜だ。
「もう……一人にしてくれよ」
鉄喜は豪快に席に着き、他の生徒が驚いて見ている中、けたたましく言った。
「アイツらマジでバカだよな!喧嘩したぐらいでクラス離すとか!逆にさ、火種が二つに増えただけじゃねえか。ガハハ!」
「いや、お前と一緒にすんな」
すると今度は、後ろのドアが勢いよく開いた。
「翔くん!一緒に食べよ!」
女っ気のない翔のクラスが色めき立つ。
「誰!?」
「すげえギャル!」
「可愛い〜!」
ざわつく男子達を無視するかのように、ズカズカと教室に入ってきた蘭は、翔の隣の男子を睨みつけた。
「どいてくれる、そこ」
「あ……はい」
窓際の翔の席だけは、赤髪、不良、ギャルの異空間になった。
「翔くん、あーんする?はい、あーん」
「殺すぞ、お前」
翔は頭を抱えた。
「頼む……勘弁してくれ」
その言葉は、騒がしい教室の中で、誰にも聞かれずに消えた。
「おい、蘭、オレがしてやるぞ」
「死ねよ」
騒ぐ鉄喜と蘭をよそに、翔はまだ、机に肘をついたままだった。
──その時だった。
蘭は、無意識に胸元を押さえた。
息が、一瞬だけ詰まる。
胸の奥を、指でつつかれたような感覚。
「……気のせい、だよね」
自分にそう言い聞かせるように、笑おうとした。
ただ、心臓が一度、大きく跳ねた。
笑っているはずなのに、背中を、冷たいものがなぞった気がした。
「……ねえ、翔くん」
呼びかけた声は、
自分でも驚くほど、掠れていた。
その声に、翔は顔を上げた。
そして、初めて窓の外に目をやる。
翔は手にしていたパンを、そっと机に置いた。
気付いた鉄喜が翔に問いかける。
「翔、どした?」
「いや、あれ」
翔が指差した隣の校舎の屋上に、人影が見えた。
屋上の縁に立つ影は、制服だった。
この学校の生徒だ。
特別な何かじゃない。
どこにでもいる、ただの生徒。
「何やってんだ、アイツ」
「あ、あぶねえぞ!」
その影は、何かに怯えるように後退りしながら、屋上の縁へ向かっていた。
両手を前に出し、迫ってくる何かに弁解するように──怯えている。
「おい!それ以上……」
翔の声は、届かなかった。
翔は立ち上がろうとした。
声より先に体が動くはずだった。
──それなのに、足が、動かなかった。
人影は、縁で一瞬だけ止まった。
まるで、最後の抵抗をしているかのように──
その顔は、見えない。
けれど、確かに──誰かの人生の途中だった。
制服の裾が、風にあおられて、
不自然なほど軽く揺れていた。
教室のざわめきが、遠のいた。
──その瞬間、人影は、宙を舞った。




