第47話 祓えぬもの
蘭は、誰もいないはずの遊歩道を思い出していた。
前にも、後ろにも、確かに人はいなかった。
──それなのに、声だけがあった。
その感触だけが、蘭の胸に残ったままだった。
「明日から、学校だな!翔!」
卵を焼きながら、利蔵の声は朝から燃えていた。
「ん。ああ」
「ほほ、日常に戻り、この世界がまたどう見えるか。楽しみじゃの」
「ん。まあ」
翔の心は、まだあの神社の境内にあった。
「オレは……今更学校なんか行って、どうしろって──」
翔が言いかけた時、ドアが勢いよく開いた。
「おはようございます!」
──あいつだ。
「おお、鉄喜くん!お母さんの容態は?」
「はい!おかげさまで、疲れが溜まってただけだったみたいで、今はすっかり元気になって家に戻ってきました!ご心配おかけしましたぁ!」
こいつは、いつも空気をぶち壊しやがる──
「おい、翔!なんだその目玉焼き!食わねえのか?オレが食ってやろうか?ガハハハ!」
「朝から、うっせえな、お前。なんでそんな元気なんだよ」
鉄喜はキョトンとした顔で翔を見た。
「え。お前バカか?朝だから元気なんだろ!朝は元気よく挨拶!小学校の時に習ったろ?」
「……うるせえ。本当にうるせえ」
鉄喜の直球に何も言い返せない翔を見て、光明が笑った。
「ほほほ。いい友をもったのう」
「どこがだよ……」
鉄喜は窓を指差した。
「あ。蘭だ。あいつどこ行くんだ?」
「知らねーよ」
蘭は、翔の家を通り過ぎ、神社へ続く遊歩道に向かった。
夏祭りの夜。神社へ向かった蘭の前に現れた少年。
──お姉ちゃん。
「まさか……あいつが」
遊歩道の真ん中で、足を止めた蘭。
──お姉ちゃんと僕は一緒だよ。
「何が……一緒なのよ」
謎の少年の言葉を思い出す蘭の胸には、ドス黒い不安が渦巻いていた。
その不安の正体を、蘭はまだ掴めずにいた。
鉄喜は食卓に座り、翔の食べかけの卵焼きを口に放り込み、利蔵に話しかけた。
「でも、師匠。これから、オレ達は悪鬼に取り憑かれた人間をたくさん見ることになるんですよね?」
「おお、そりゃそうだ!」
「一体、どうしたらいいですか?」
利蔵は箸を止めた。
「どうしたら、とは?」
「いや、だって、取り憑いてるやつを片っ端からしばいてもキリがないし、なんならオレ達がおまわりに逮捕されちまう。どうしたらいいのかなって……」
利蔵は勢いよく翔を指差した。
「いい質問だ!鉄喜くん!この前の翔みたいに、いきなり飛び膝蹴りなんてもっての外だ!」
翔は鉄喜を睨みつけた。
「余計なことを……」
利蔵は続けた。
「これはサニワにもよるが、見えるからって、特に何も変えなくてもいいんじゃないか?」
「変えなくても?」
「ああ。取り憑いてるからって、その人間が悪い人かどうかなんてわからないだろ。普段通りで」
鉄喜は手を叩いた。
「なるほど!わかりました!……たぶん!」
翔は横目で鉄喜を見た。
「本当に分かったんかよ」
利蔵は頭を掻きながら、つぶやいた。
「それに、生まれながらの悪鬼もいるからなぁ。それは見た目じゃわからない」
翔は利蔵の顔を見上げた。
「生まれながらの……悪鬼?」
光明はお茶をすすった。
「正確に言えば、人間として生まれてきた悪鬼じゃな」
鉄喜は背筋に寒気がした。
「え、人間として生まれた悪鬼って……ヤバくないですか!?」
光明は視線を落とした。
「ああ、厄介じゃ。それがスサノオ様が言っていた、悪鬼が犯した禁忌の一つでもある」
「禁忌……」
翔はコップを置いて、光明を見た。
「つまり……サニワには祓えない」
「そうじゃ。人間として生まれてきた以上……それを“祓う”と呼ぶかどうかも、怪しくなる」
翔は息を呑んだ。
祓う──それは、ただ悪鬼を消すという意味ではない。
この場合、それは人の命を奪うことになる。
それをやった瞬間、簡単に正しいとは言えなくなる。
翔は箸を持ったまま、動けなくなっていた。
祓えない。
──じゃあ、どうすりゃいいんだ。
その禁忌の重さだけが、答えのない問いとなって、胸の奥に沈んでいった。
「生き残る方を選んできた」
あの夜の蘭の言葉が、胸の奥で反響した。
その時、なぜか翔の脳裏に、蘭の背中がよぎった。




