第100話 禍の影
夜明け前。
境内の端、原生林との境目は、土がえぐれたように崩れていた。
重機のライトが照らす先で、救急隊員が慌ただしく動いている。
「……下に人がいたらしい」
「足場が、急に……」
誰もが口を濁した。
翔は、崩れた斜面を見つめたまま、動けずにいた。
胸の奥が、嫌な音を立てている。
「……いる」
誰に言うでもなく、呟いた。
事故現場に、ふわりと黒い霧が立ち上った。
嫌な予感が的中した気がした。
翔は小さく呟いた。
「また、悪鬼が祭りの邪魔を……」
──そう思った。
翌日、事故現場の前に立った翔と鉄喜。
「……わからん」
久しぶりに姿を見せた光明が、ぽつりとそう言った。
「悪鬼の気配に似たものはある。じゃが、それが“悪鬼”かどうかは、断じきれん」
翔が息を呑む。
「でもオレは昨日、悪鬼のオーラを見た……」
鉄喜が、恐る恐る口を挟む。
「じゃあ、なんなんだ……」
光明は首を振った。
「それを知るには、まだ早い。ただ一つ言えるのは──」
杖で地を叩く。
「この場所は、もう“静かではなくなった”ということじゃ」
鉄喜が眉をひそめた。
「……人が入ったから?」
光明は視線を落とした。
「禍津日神……」
翔は光明を振り返った。
「マガ……ツヒ? じーちゃん、なんだそれ?」
「厄災や凶事を司る神と言われる」
鉄喜は口を震わせた。
「神が……厄災を?……そいつの仕業ってこと?」
光明は、はっきりと首を振った。
「違うとも、そうだとも言えん。禍津日神は何かを起こす神ではない。起きた災いに、人が名を与えただけの存在とも言われておる」
光明は、晴れ渡る春の空を見上げた。
「故に、災いに名を与えてはならぬ。それは神となり、この世に留まることになる」
翔は光明の顔を、じっと見た。
「災いに名前をつけたら神になる……か」
「……わからん時ほど、人は都合のいい答えを選びたがるからのう」
翔は得体の知れない不安に、唇を噛んだ。
蘭は、駅前のカフェにいた。
「翔くん……今頃何してんのかな?」
物思いにふける蘭の顔を、ガラスに手をついて見つめる玲那がいた。
「お姉ちゃん、おはよう!」
蘭は訝しげに玲那を見つめた。
「なんでアンタがいるのよ」
「通学路だから、ここ!」
「あ。そう」
「一緒に行こ!」
「なーんか、信用できないのよね、この子……ま、いっか」
カフェを出た蘭は、玲那に気を取られて人混みにぶつかった。
「痛っ、ごめん!」
「あ、ごめんなさい」
蘭は固まった。
「アンタ……」
そこには、驚くほど痩せ細り、生気を感じない音葉が立っていた。
言葉を失った蘭は、その場に立ち尽くしていた。
音葉は弱々しく一礼すると、人混みの中に消えていった。
「お姉ちゃん、今の誰?」
「……知らない人」
玲那は首を傾げた。
「元気なさそうな人だったね!」
蘭は、追いかけなかった。
——追いかける理由が、ない。
正直、好きじゃない。
それでも。
さっきの音葉は、いつもの“感じ”とは違った。
睨み返す気にもならないほど、薄かった。
生きているのに、ここにいない。
そんな違和感だけが、胸に残る。
「……何、あれ」
——壊れかけてる。
蘭は無意識に、自分の手を握りしめていた。
「……嫌いだけどさ」
小さく、吐き捨てる。
「……どうしたのよ」
その言葉は、誰にも届かず、
人混みに溶けて消えた。
蘭は、音葉が消えていった人混みから、目が離せなくなっていた。
理由のわからない不安だけが、
春のざわめきに取り残された。




