第99話 不貞腐れた神
保健室の天井は、白すぎて目が痛かった。
「……立花さん。聞こえる?」
遠くで先生の声がする。
音葉は返事をしようとして、喉が動かなかった。
瞼の裏に、月の冷たい光が滲む。
──何をしておる、サニワ。
──役目を果たせ。
胸の奥を掻き回すような声。
音葉は両手で耳を塞いだ。
「いや……やめて……」
言葉が漏れた瞬間、身体がきしんだ。
肺の奥が痛い。心臓の鼓動が、遅れて響く。
保健室のドアが開き、叔母が駆け込んできた。
「音葉!」
叔母の手が肩に触れた瞬間だけ、現実が戻ってきた。
「……大丈夫。大丈夫だから、今日は家に帰ろう」
音葉は小さく頷いた。
“普通の高校生”に戻るための、はずだったのに。
その夜。
叔母の家の布団で、音葉は丸くなっていた。
熱はない。怪我もない。検査でも「異常なし」。
それでも、胸の奥が冷たい。
──混沌を正せ。
音葉は、唇を噛んだ。
「……私、もう……」
サニワをやめたはずだった。
いや、やめさせられただけだった。
月の声だけが、音葉を離してくれなかった。
一方その頃。
翔の地元の神社では、話が一気に現実味を帯び始めていた。
「ここからここまでを、少し整備しましょう」
「足場を良くすれば、人も呼びやすいですしね」
境内の端。
わずかに残った原生林との境目で、行政関係者と業者が資料を広げている。
利蔵は腕を組んだまま、黙ってその様子を見ていた。
「利蔵ちゃん、草刈りくらいなら問題ないよな?」
「夏祭りやるなら、最低限の安全確保は必要だ」
町内会長の言葉に、利蔵はすぐには答えなかった。
「……“最低限”か」
空気が一瞬、止まる。
「いいよね? 利蔵ちゃん?」
すると、行政関係者の一人が口を挟んだ。
「いいも何も、それやらないと許可出せないよ」
利蔵は、それ以上言わなかった。
だが、その視線は境内の奥から離れなかった。
夕方。
翔は神社の境内に立ち、遠くの山を見ていた。
人が増えた。
音が増えた。
空気が、変わった。
「……なんか」
一人、呟いた。
守った場所に、人が来る。
望んでいたはずの光景。
なのに。
翔は拳を握る。
「……嫌な予感しかしねえ」
その予感が、音葉の中で起きている“異変”と、
まだ見ぬ悪鬼へと繋がっていることを、
この時の翔は、まだ知らなかった。
帰り際。
整備予定の境内の端で、草刈り機のエンジン音が一瞬、途切れた。
「ん?」
作業員が首を傾げ、再びスイッチを入れる。
エンジンは、何事もなかったように回り始めた。
その時だった。
地面に落ちていたドングリが、コトリ、と音を立てて転がった。
風は、吹いていない。
翔は、思わず足を止め、降りてきた神社の階段を見上げた。
「……あ」
階段の上には、こちらを見下ろすククノチがいた。
相変わらずの無表情。
だけど──
ククノチはプイっと背中を向け、パタパタと消えていった。
──なんとなく、不貞腐れているようにも見えた。
翔は無意識に頭を下げた。
「気のせいかな……?」
──そう見えただけかもしれない。
だが、なぜか胸の奥が、少し痛んだ。




