第1章:落下と邂逅
その日、空はやけに高かった。
中学三年の拓実は、帰り道の高架歩道を歩いていた。黄昏が街をオレンジに染め上げる中、彼は一人、イヤホンを片耳だけにつけて、校門でもらった進路希望調査の紙をくしゃくしゃにしていた。
「“将来について、思いつくことを書いてください。”って……思いついたらとっくに書いてるよ」
独りごちた声が、誰にも届くことなくアスファルトに吸い込まれる。
彼はいつだって、一人で考え、一人で決め、一人で黙って行動してきた。何かに悩んでも、誰かに相談したことはなかった。相談したところで、どうせ「考えすぎ」「気にするな」の二言で済まされる。それが嫌だった。
だから、その日も——。
「!?」
頭上でタイヤの軋む音が走った。高架の反対車線を走っていたトラックが、縁石に乗り上げてバランスを崩す。車体が浮いた。そのまま鉄柵を破って、拓実の真横へ——。
風が巻いた。柵が弾け飛ぶ。視界が一瞬、白に染まり——。
「っあ……!?」
落ちた。落ちていた。足場が消え、体が空中を泳ぐ。
衝撃は来ない。代わりに——世界が、変わった。
まばゆい光の中に、淡い青の魔法陣が現れる。その中心にすい込まれていく拓実の姿。
「転移……!?まだ安定してないのに!」
誰かの声が聞こえた。少女の声。真剣で、必死な、強くあたたかい声だった。
——視界が再び開けたとき、拓実は、石造りの広場のど真ん中で地面に尻もちをついていた。
周囲には白い尖塔、鮮やかなガラス装飾のある城壁、見たこともない民族衣装の人々。そして、自分を見下ろしている、一人の少女。
金と朱の混ざった長髪。王族のような衣装。だが、それ以上に印象的だったのは、その眼差しだ。まっすぐで、誰かを救いたいという意志に満ちていた。
「……よかった。生きてる」
少女はそう言って、ほっと息をついた。
「……ここ、どこ?」
拓実が絞り出すように尋ねると、少女は静かに立ち上がり、右手を差し出して言った。
「ここは〈レーヴェリア〉。あなたを呼んだのは、私。王女・心花。あなたに……この世界を救ってほしいの」
「世界……を?」
言葉の意味が、理解できなかった。
彼女は構わず続ける。
「この世界の命そのもの、〈世界樹アムニエル〉が、いま枯れかけているの。瘴気が広がって、人も竜も狂い始めてる。あなたは、異世界を救う“勇導士”として選ばれたの」
「待って。今、死にかけてた俺が、ここに来て……それで“選ばれた”って?そんなの……意味がわからない!」
思わず声を荒げる拓実。
「わかってる、混乱するのは当然。でも、それでも、助けてって頼まなきゃいけないの。……この世界に、もう時間がないの」
その言葉に、嘘はなかった。
拓実は直感的に悟った。彼女は、形だけの頼みごとをしているんじゃない。命を賭けて、本気で、世界を救いたいと思っている。
「……じゃあ、一つだけ聞く。俺じゃなきゃ、ダメなのか?」
「……うん」
即答だった。
その一言に、拓実は息を呑んだ。
彼の中に、かすかに残っていた“誰かに必要とされたい”という願いが、静かに疼いた。
「……わかった。信じてみるよ。俺でよければ、やってみる」
彼の答えに、少女——心花は瞳を見開き、すぐに強く頷いた。
「ありがとう。拓実——あなたの名は?」
「……神代拓実。中三。得意なことは、誰にも頼らずやること、かな」
照れ隠しに、いつものように少し斜に構えて言ったつもりだった。
だが、心花はにっこりと微笑んで、言った。
「——これからは、“誰かを頼る”ことも、覚えていってね。勇導士さん」
拓実の心に、ひそかに風が吹いた。
王都〈フィルディナ〉は、拓実にとってまるで絵本のような場所だった。石畳の通りを馬車が行き交い、空には龍に似た生物が羽ばたいていた。けれど、ただの夢の世界ではないことは、広場の空気をひと吸いしただけで感じられた。
澄んでいるはずの風が、どこか濁っている。
視線を上げると、王城の奥、遠くにそびえる大樹の姿が見えた。その幹は黒ずみ、葉は乾いて落ち始めている。
「あれが、世界樹アムニエル……?」
「そう。かつては空を覆うほどの枝葉があって、夜は星を照らし返すほどだったの。でも、いまは……」
心花の言葉に、静かな痛みがにじんでいた。
その時、騎士の一団が広場へ駆け込んできた。先頭にいた青年が馬から降りるなり、心花に歩み寄る。
「姫様、ご無事ですか! 魔導円が安定しない段階での転移など、無茶すぎます!」
「……ごめんなさい、雄介。でも、彼を放ってはおけなかったの」
そう言って、心花が軽く振り返る。
青年——雄介は、少しあきれたように笑った。切れ長の目元に余裕のある表情を浮かべ、言った。
「まったく……でも、無事ならいい。……それで君が、“勇導士”か」
拓実は一瞬、声が出なかった。
(雄介って……あれ?俺の名前に似てる?)
「神代拓実です。たぶん、普通の中学生だったはず、さっきまでは」
「そりゃまた、急展開だったな。俺は雄介。姫様の近衛、それと……この国の戦術指南役だ」
軽く右手を差し出され、握り返す。手のひらは硬く、鍛え上げられていた。
「君には、いろいろ教えなきゃならないことが山ほどある。まずは……王城で、上の連中に挨拶と事情説明ってところかな」
「上の連中、って?」
「王都評議会の面々だよ。政治家と軍の将官、聖職者や魔導師連中の集まりさ。正直、頭が硬い奴らばかりでな」
「なるほど……説得は苦労しそうだ」
拓実は肩をすくめて笑った。その時、心花がすっと近づき、小声で囁いた。
「彼らはね、過去に異世界から来た“勇導士”が暴走した例をまだ引きずってるの。だから、拓実のこともすぐには信用しないかも」
心花の声には、拓実を気遣うやわらかさがあった。だが、その奥に、消えない決意の芯が見えた。
——この子は本気で、この世界を守ろうとしてる。
「じゃあ、見せるしかないな」
「え?」
「俺がこの世界に必要な存在だってことを、言葉じゃなくて、行動で証明する。でしょ?」
心花は一瞬、目を丸くした。だが次の瞬間、笑みがこぼれた。自然で、まっすぐで、どこか誇らしげな笑みだった。
「うん。……よろしくね、拓実」
「こちらこそ。……勇導士として、できる限りのことはやってみるよ」
そして三人は、広場をあとにして、王城の高い塔へと向かって歩き出した。
(第1章「落下と邂逅」完)