[EP.1-2]インスピレーション
玲子が目を覚ましたのはスマホのアラームが鳴る直前だった。
いつもの時間。いつもの天井。だが、昨夜の出来事はあまりにも鮮やかでリアルだった。
何より忘れられなかったのはあのルミナの歌声。
玲子の中のインスピレーションを強く、確かに揺り動かしていた。
試作中だった自作トラック。
そのボーカルパートに足りなかった“何か”が、あの夢で補完されたような感覚。
まるでピースがぴたりとハマったような、しっくりとした確信。
いつもなら二度寝を決め込む玲子だったが今日だけは違った。
この感覚を逃したらもう取り戻せない気がして、勢いよくベッドから体を起こす。
制服に袖を通しながら片手でスマホにメモを打ち込み、
頭に残る旋律を一つもこぼさぬよう、慎重に文字を連ねた。
リビングに向かうと母がソファでテレビを見ていた。父の姿はすでになく仕事に出かけたようだ。
「玲子~、あんた朝ご飯どうすんの~?」
「ヨーグルトでいい!」
勢いよく口の中に運び、慌ただしく靴を履きながら答えると母はきょとんとした顔を向けた。
「なんでそんなに焦ってるのかしら……?」
その問いかけに答える代わりに、玲子は小さく息を吐いて微笑んだ。
――音を忘れたくない。ただ、それだけだった。
学校に行くのは本来なら気が重い。だけど今日は少しだけ気分が違った。
授業なんてどうでもよくて、玲子にとって本当に大事なのはお昼の自由時間だった。
* * *
昼休み、教室の空気がざわざわとお弁当の匂いに包まれるなか、玲子は一人で屋上へ向かった。
手には購買で買ったチョコチップパンと缶入りのカフェラテ。
鉄扉を開けた先には春の陽気が広がっていた。
風は穏やかで空は雲ひとつない透き通るような青。
玲子はフェンス際のベンチに腰を下ろすとスマホを取り出して「ソニックデュエル」アプリを起動した。
専用バイザーを装着すると視界に仮想インターフェースが展開され、透明なDJ機材が宙に浮かぶ。
彼女だけに見える音楽のフィールド。
自作の試作トラックを再生する。
低くうねるベースラインが足元から立ち上がりエレガントなパッド音が空間を包む。
中盤に差しかかったとき――
ルミナの歌声を思わせる旋律が音の波に乗って現れた。
(やっぱり……あのときの歌、あたしの中にちゃんと残ってる)
玲子はメモ書きと記憶を頼りに、即興でボーカルラインを調整し始めた。
仮想機材の上で手を動かし細部を磨き上げる。
旋律とコードがぴたりと重なり少しずつトラックが命を宿していく感覚。
8割ほど組み上がったところで屋上の扉が開いた。
「おっ、こんなところにいたのか……って、あら?」
聞き慣れた声に顔を上げるとそこには親友の優奈が立っていた。
玲子のバイザーを見て、彼女も自前のバイザーを取り出して装着する。
「なにこれ、めっちゃいいじゃん、この曲!」
「うわっ! びっくりした……なんでここに?」
「アンタが屋上行くときって、大体なんかある時でしょ? ちょっと気になってさ」
玲子は苦笑しながら肩をすくめた。
優奈はしばらく玲子の仮想機材と音をじっと聴いていたが、ふと穏やかな笑顔を浮かべた。
「今の曲、すごく良かった。なんていうか……優しいけど、しっかりノれる。
あたし好きだな、こういうの」
玲子は思わず目を伏せ、頬をかく。
「そっか……ありがと。たぶん、ちょっとだけ“好き”に戻れてきてるのかも。音楽が」
「だったら最高じゃん。いいじゃんそれで。
あたし、玲子の音楽ほんと好きなんだよ。誰がなんて言ったってさ」
玲子はその言葉に、自然と背筋が伸びるのを感じた。
自分の音楽を誰かが“好き”と言ってくれる。
それだけで、今日の太陽が少しだけ温かくなったような気がした。




