[EP.1-0]音が夢を呼ぶ夜
――その夜のこと、たぶん一生忘れない。
玲子がまだ小学二年生、姉の七海は五つ年上の中学生だった頃。
ふたりはおそろいの光るリストバンドをつけて、夜の風の中を歩いていた。
「パパー、見えないーっ!」
「こっちもー!」
人混みに埋もれたふたりを、両親が笑いながら肩車してくれた。
玲子は母の肩の上、七海は父の肩の上。
地面より少しだけ高い世界から、玲子は見た。――あの景色を。
暗闇の中に広がる、まるで宇宙のような光の渦。
空には本物の星が瞬き、地上ではレーザーライトがリズムに合わせて踊っていた。
巨大なステージの真ん中に立っていたのは、世界的に有名なDJ。
ターンテーブルを自在に操り、観客の歓声を音に変えていく姿は、魔法使いにしか見えなかった。
「すごい……音が、からだの中に入ってくるみたい……」
玲子が呟くと、隣の七海が目を輝かせて叫んだ。
「玲子! あたしたちもさ、いつかあそこに立とうよ!」
「えっ?」
「ふたりでDJのてっぺん、ぜったい行こうね!」
玲子はびっくりしたけれど、嬉しかった。
肩の上から見える星空も、ライトの波も、音のうねりも――全部が、夢に変わる音だった。
「……うん!」
しっかりと、うなずいた。
その瞬間、花火が空に咲いて、大きなビートが夜空を揺らした。
* * *
――だけど、その約束は永遠に叶うことはなかった。
七海はその後、独学で音楽制作を始め、やがて「ソニックデュエル」の黎明期に頭角を現した。
ソニックデュエル――それは音を武器に、感情とセンスをぶつけ合う新しいDJバトルのスタイル。
リアルタイムで構築するトラックとエフェクト、対戦相手の音へのアンサー。
そのすべてが、観客の心に届く「メッセージ」として評価される。
ただの音楽勝負じゃない。音楽で、心を撃ち合う戦いだった。
玲子はまだ小さくて、ライブ会場にも行けなかったけれど、テレビや動画で七海の試合を何度も見た。
七海の音は、まるで感情がそのまま音になったみたいだった。
色のついた音が空間を飛び交い、ぶつかって、光になって――
対戦相手の強いビートに、姉が繊細なメロディで応える瞬間が大好きだった。
そんな七海は、ついにプロのDJとして名を馳せる。
けれど、大学3年生の春。
全国大会を目前に控えたある日、七海は交通事故で突然この世を去ってしまう。
玲子はまだ幼く、姉の死を受け止めきれなかった。
けれど、あの夜、ふたりで交わした「世界一のDJになる」という約束――
その想いは、今も玲子の胸の奥で静かに、だけど確かに燃え続けている。
* * *
高校2年生になった玲子は、毎朝、制服のリボンを少しだけ緩めて鏡の前に立つ。
形ばかり整えても、気持ちはどこか宙ぶらりんのまま――そんな朝を、もう何度繰り返しただろう。
通っているのは、都内にあるごく普通の女子校。クラスは30人ほど。
玲子は特に目立つタイプではなく、誰とも深く関わらずに日々をやり過ごしていた。
そんな玲子にとって、数少ない「いつもの関係」がある。
小さい頃からの親友、優奈だ。
放課後の教室には、夕陽が射し込んでいる。
パタパタと帰り支度をする生徒たちの間で、ひときわ元気な声が響いた。
「ねえ玲子、文化祭のライブ、絶対出ようよ! あんたの音、もっとみんなに聴かせなきゃ損だって!」
優奈は机に腕を突いて、にやりと笑う。
玲子は戸惑いながらも、ほんの少しだけ笑った。
「うーん、辞退。」
「まーた後ろ向きなへんじ~」
優奈は肩をすくめながらも、遠慮のない口調で続ける。
「まだお姉さんのこと、引きずってるの?」
「そんなんじゃないよ。ただ……あたしの曲、まだ人前に出せるほど完成できてないし」
玲子の言葉に、優奈はあからさまに納得していない表情を浮かべる。
「前に聞かせてもらったやつ、あれ、音作りめっちゃ良かったけどなぁ~。
特にあの低音、うなったよ?」
玲子は口をつぐむ。
本当は、完成してないんじゃない。
せっかく作った曲を否定されるのが、ただ怖かった。
姉の七海と比べられ、「期待外れ」と勝手に離れていかれるのが――馬鹿らしくて、悲しくなるから。
あたしは、姉を超えられるような音なんて、まだ作れていない。
「……それよりさ、優奈。最近できたパフェ屋さん行こうよ。新作できたっぽい。」
話題を変えるように、玲子は机から立ち上がる。
「オッケー!もちろん玲子の奢りね!」
優奈はあっけらかんと笑いながら、すばやくバッグを肩に掛けた。
陽が沈みかけた通学路を、二人並んで歩く。
少し冷えた風が制服の袖をくすぐる。
笑い合う声の裏で、玲子の心にはまだ、言葉にならない音が、静かに眠っていた。