10月の響き
大学生の私は今日も、電車に乗って戦っている。恐怖と怒りを抱えて。
電車内の電光掲示板に、私の降りる駅が点滅で表示される。
早く降りたい、怖いと思う度に力の入る腕がドアに痛めつけられる。大きく揺れる度にドアへと、後ろの人が押しつけてくる。女の私の力では成す術無く。
怖い、何でそんな事してくるの、いくら叫んでみても、心の中では誰にも聞かせられない。耳が聞こえず声の出せない私が、叫べるのは心の中だけだった。だから、心の中で叫んだ、今日も。助けてを。何で誰も助けてくないの、を時折強く思いながら。
気持ちの悪い指、頭皮にさえ染みつきそうなその熱い息を、跳ね除けてもまとわりつくそれを、耐えなきゃ行けないという拷問に何故いつまでなんて思いも無く、ただその指と息を心から怒りで抹殺するだけだった。ひたすらに、何度も。
漸く開くドアから飛び出して、後ろを素早く振り返って見ても、沢山の人が溢れ出たホームで人の波に揉まれるだけで、人の波が去った後には幾人かのスペースを開けた乗り口が開いているだけだった。そこに、いるのかも知れないし居ないかも知れない、当然に平然と在る乗り口。
そして、体には触られた感触だけが残る。体も服も洗いたい位まで来ている。
(もう嫌だ、毎日。最悪だ)
(このまま動揺しても相手が喜ぶだけ。そう、振り払うんだ、いつか天罰が下るから)
閉まるドアに出来る限りの八つ当たりをしたくて、厳しく睨んで、ふいと平然を纏った。
(そう、明日は花火、花火!)と、大学への道を歩きながら楽しみなイベントを思い出した。しかも、伊吹と二人きり。何で私なんかを構ってくれるのか分からないけど、私は理由なんてどうでも良く、伊吹の事が好きで、ずっと好きで居たい。音の無い私の、せめてもの贅沢、それくらい許されて欲しい。
伊吹はどんな格好が好みなんだろう、と色々な情報を思い返しながら歩いていると、(おはよう、未知瑠)伊吹の顔が突然出てきた。まさか、私口から何か言って無かったかなと心配になりながら、心臓のバクバクを放っておいて伊吹をまず見つめた。今日も優しい目をしてくれている。そして、ニッと歯を見せてくれて屈託無く向けてくれる笑顔!この笑顔に何もかもが癒されてく。ささやかな一秒すら私の宝物。余す事無く宝箱に閉まっていく。
ありがとうとおはようを混ぜて伝える。勿論伊吹にはバレない様に。そんな事をして、恥ずかしくなっていつも以上に笑ってしまった。
大丈夫かな、変な笑顔になってないかなと心配になった。
伊吹の笑顔が増して、ああ好きが溢れてくる。多分、喋れていたら今言ってしまっているんじゃないかと、自分の強欲さに気づいて怖くなりながら、でも、言いたいに落ち着く。
そんな妄想全部誤魔化して、(明日楽しみ)を手と口で伝えた。
(うん、楽しみだね)伊吹が答えた。伊吹のエメラルドに光る髪に惹かれた。
(髪の色、似合ってるよ)と一生懸命伊吹に伝えた。凄い色、でも良い色、好きな色。
(夜でも派手に見えると思って)と、伊吹の言葉。
え、まさか、私の為?よく迷子になる私の為?と素直に思えてしまう自分が恥ずかしくなり、いやいや違うと落ち込んで。バンドマンだから、きっとファンの人に見られるかもだから、ちょっと派手にしているだけだ、と。初恋で初心な私は、夢見る力が暴走して仕方無い。
(明日、どうしても一緒に来たいって奴がいてさ)と伊吹が苦笑い混じりに伝えてきた。何の事か分からず、立ち尽くしていると、何か大きなハーフの人がぐいっと来た。私は困って、伊吹に助けの眼差しを向けた。
(こいつ、ジョナサンて言うんだけど)と伊吹。ああ、お友達かあ、なんて思っていた私に、(君はとても可愛い、とてもとても可愛い)とグイグイ来るジョナサンに私はいやー!となって引いてしまった。伊吹、友達なのは分かったけど。そうか、私に宛てがおうとしてるんだ、と。でも、一緒に行きたく無いならそう言ってくれれば良いのに、と悲しくなって、一人で校舎に向かった。伊吹を無視して。悲しくて仕方無かった。校舎の中がやけに冷たくて、心まで冷えそうだった。
でも、それからも伊吹とジョナサンは私をずっと構ってくれた。こんな私を。
元気で明るい伊吹とジョナサン。
この冷たい視線と冷たい空気が漂う学校で、いつも傍にいてくれたのは伊吹だった。いつも私の太陽で居てくれる。救ってくれている。
そんな伊吹の友達なんだから、きっとジョナサンも良い人なんだと思えて、そしてだんだんと可愛い人だななんて思えた。
食堂でご飯を一緒に食べていると、(明日の花火大会、是非一緒に行かせて下さい)とジョナサンが突然の土下座をしてきた。え、そこまで、一緒に行くだけなのに、と思えて何だか申し訳無くて、一生懸命止める伊吹がまた面白くて、その輪の中に居る事がとても楽しくなって、お腹を抱えて思い切り笑ってしまった。
もっと輪の中心にいさせて、と思いながら首を縦に振った。周りから冷ややかな視線を送られていてもへっちゃらだった。この二人となら。
翌日、いつもの電車だけどいつもの様子じゃない事が一つだけ。いつもより大胆に触れてくる指、そのうち手の平ごと。気色の悪い触感、熱いそいつの手に怒りよりも今日は恐怖が勝って、吐き気すらしていた。そしていつもよりも長く、こちらのドアが開くまで延々と、だった。何度も強く抵抗しているのに、今日は更に強く私をドアに押し付けてくる。やがてドアにへばりつくしか出来なくなった私をまた強く握ったり触ったりしてくる。このまま本当にどうにかされそうで、恐怖の黒いカーテンが閉じていく様に、私の視界も暗くそして滲んで行く。息も荒くなるが押されて苦しく、思う様に出来なくなってくる。すると何故か無意識のうちに頭に浮かんでいた、伊吹の顔が。
(伊吹)と精一杯に声に出してみた。涙が拍子に漏れて。伊吹に会いたくて仕方が無かった。
伊吹、大好き、ずっと。
でも、今は友達がいい。いや、友達でいて欲しい。
痴漢から私を救ってくれたのはジョナサンだった。ジョナサンの優しさに、私は救われた。すごく良い人で、さすが伊吹だね、こんなに良い友達がいるなんてって思って。
私なんかが何かをして、この関係を壊したくない、そう強く思った。ジョナサンも、伊吹も仲良くいて欲しいし、私もそこに居たいから。それが私の今の望みだった。
その日は二人とも凄く心配してくれていたけど、私の気分は本当にすっかり元気だったので、予定通り花火大会へ向かった。
今日が本当に楽しかった。生きてきた中で一番かも知れない。たこ焼きもお好み焼きも、焼きそばも三人ずっこ(半分ずっこの三人版だから三人ずっこ)して、はしゃいで、笑って、泣いて、沢山話を聞いて。二人とも目がキラキラしてて、凄い綺麗だった。仲間ってこんなに素敵なものなんだ、と思った。
それなのに恋心とか言って一人で勝手に悩んでいた私は少し恥ずかしくて、でも、今があるから何でも良くなっていた。この二人とだから。
ジョナサンも、伊吹も、そして私も、あと半年でそれぞれの道を行く。
だから、今を強く生きる必要があると思った。今を大切に出来ないと、きっと未来も上手くいかないから。
伊吹が泣きながら歌って、ジョナサンが笑いながら手拍子してて、私も笑いながら二人を目に焼き付けた。心で沢山ありがとうも言って。
ふと二人の目に、色とりどりが映った。花火が上がっていた。
広くて明るい花火。しんみりする花火。花火と花火が手を取り合って、絆を魅せてくれる花火。
(きれい)思わず言っていた気がした。するとやっぱり言っていた様で、二人は驚いていた。
少し前の私なら、自分でも聞いた事の無い声というものがどういうものなのかも分からずに、私は普通の人と違うからと引っ込んでいただろう。でも、今は違う。
声はきっと、仲間を繋ぐ合図の様なもの。私はそう思ってる。言葉じゃなく、人と人を繋いでいるものなんだと。
私は皆の声を聞く事は出来ない。けど、伊吹が、ジョナサンが、私を他の人と同じ様に扱い話しかけてくれる、声を使って。そうして、私を繋いでくれている。
だから、私はそれに答えたい。そう思って声を出してみた。
二人が強く頷いてくれる。やった、出てるみたいだ。二人が頷いてくれるから私はいつでも声を出せる、ありがとう。そう言いたかったけど、また今度にした。
それから何度も言ってみた、三人で。
(綺麗な花火)と。
私の心に響き続ける。
(綺麗な花火)




