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さよなら一刀斎


雁木楼が燃えている。否、港崎みよさき遊郭全体が、巨大な火の玉と化している。


大きな欅の幹に背を預けた格好で、志麻は目を覚ました。

そこは日本人町と外国人居留地の間にある公園、通称パークと呼ばれる所。雁木楼に乗り込む前に、皆で打ち合わせをした場所だった。

しかし、今、何かが足りない。

「気がついたか?」慈心が立ったまま志麻を見下ろした。

「お爺ちゃん、一刀斎は?」

「分からぬ、じゃがあの炎ではのぅ・・・」

慈心は轟々と音を立てて燃える巨大な遊郭を見遣った。

志麻はゆっくりと起き上がって慈心のそばに立った。

「お爺ちゃんは知ってたの、一刀斎が隠密だったって事?」

「うむ、奴は儂にだけは正体を明かしておった。じゃがお前にも、多分銀次にもその正体を知られてしまった。じゃから生きておっても死んでおっても、二度と儂等の前に姿を見せる事はないであろうな」

「そんな・・・」

銀次は少し離れた場所で、やはり遊郭を見ていた。手には松金屋を縛った帯の端をしっかりと握っている。

松金屋は今更ながら自分の犯した罪の重さに恐怖し、膝をガクガクと震わせていた。

「お、俺はなんということを・・・」

「今更悔やんでも遅ぇんだよ!お前ぇが売ろうとしていた武器は、もっと大勢の人を殺していたかも知れねぇんだ!」

「う、うう・・・」

「銀次、そいつを連れてこい」慈心が呼んだ。

「どうするの、お爺ちゃん?」

「海軍操練所に行って奉行に引き渡す」

「それが一刀斎がやろうとしていた事だものね」

「奴の最後の願いを叶えてやるのじゃ。一刀斎は奉行と連絡を取っていたに相違ない、でなければ今の時期に奉行が江戸から出張ってくる筈はないからの」

「そうね・・・でも私一刀斎が死んだなんて信じられない」

「志麻、一刀斎は死んだのじゃ。儂等は奴が死んだものとしてこれから生きていかねばならん。それが隠密に関わったものの定めじゃからの」

「うん・・・」

「江戸へ帰ったら、一刀斎の葬式をするぞ」

「え?」

「長屋の者たちや奴を知る者たちにも、奴が死んだということを周知させねばならぬ。それが儂等が最後にしてやれる事なのじゃ」

志麻は黙って頷いた。

楼が崩れ落ちて行く。一刀斎との思い出を全て焼き尽くすように。

やがてそれも涙に滲んで見えなくなった。


*************************************************


一刀斎の借家に白布を張り、粗末な文机を祭壇がわりに据える。その上には真っ新な位牌が一つ。

遺体は無い。

港崎遊郭の焼け跡からは、無数の遺体が見つかった。だが火の勢いが尋常ではなかったせいで、どれも性別も分からぬほどに焼け焦げていた。

一刀斎の脇差も、あの瓦礫の山から見つけ出すのは困難だ。

神戸の外国人居留地から戻った蛇骨長屋の住人達は、一月後遺体のないまま一刀斎の葬儀を行うことにした。

導師は羽黒山の修行場から戻ったばかりの店子たなこ、閃光院だ。

修験者は膝を正して白木の位牌に向かったが、ややあって静かに向き直る。

「さて、経をあげるのに戒名がなければ具合が悪い。誰ぞ一刀斎の本名を知る者はおらぬか?」

長屋の皆が顔を見合わせる。

「そういや、普通に一刀斎の旦那って呼んでたなぁ、本名なんぞ聞いた事もねぇや」楊枝売りの秀が言った。

「おい伝兵衛さん、あんた大家だろう。知ってるんじゃねぇか?」大工の正吉が訊く。

「それがな、このたなの正式な借主はお旗本の長谷川様だ。身元は儂が保証するから黙って貸してやってくれって頼まれてな」

「なんだ、大家が知らねぇんじゃ処置なしだ」

「しかし、名無しの権兵衛というわけにも行かないでしょう」若い町医者の寿庵が腕組みをした。

「いいじゃないか一刀斎で。それが一番あいつらしいよ」お梅婆が言った。

「そうだ、そうだ、鯱鉾ばった立派な戒名をつけたって、あの人だって分からなきゃしょうがない」船頭の女房加代がお梅婆に同調する。

「儂もそれが良いと思う。志麻も銀次もそれで良いな?」慈心が訊いた。

「はい」志麻が短く答える。

「俺も依存はねぇ」

「他の皆もそれで良いな?」

皆黙って頷いた。

「では・・・」閃光院が硯に墨を擦る。そして筆をゆっくりと走らせた。

『一刀斎居士』と墨書された白木の位牌が、粗末な祭壇の上に置かれた。

その途端、お紺が堰を切ったように泣き出した。

「一刀斎なぜ死んじまったんだよぅ!」

今まで気丈に我慢していたものが一気に溢れ出したのだろう。まるで子供のように泣きじゃくる。

「お紺さん・・・」志麻が震える肩に手を置いた。

「志麻ちゃん、あんたがついていながらなぜ!」

「ごめん、お紺さん・・・私」

「お紺、志麻を責めるでない。誰もこうなる事を止めることはできなかった」

「でも・・・でも」

「志麻だって辛いのじゃ、分かってやれ」

お紺は泣き腫らした目を志麻に向けた。

「ごめん、そうだったんだね、あんたも一刀斎の事・・・」

お紺は辰巳芸者の矜持を取り戻したように背筋を伸ばす。

「さあ、皆で盛大に一刀斎をあの世に送ってやろうじゃないか!」


山伏経が低く流れる。薄暗い部屋に線香の煙が漂い出す。

「一刀斎のおじちゃん帰ってくるんだよね?」秀に息子の健太が訊いた。

「おうよ、あの強ぇ一刀斎の旦那がそう簡単に死ぬわきゃねぇじゃねぇか」

「よかった、俺明日の朝から木戸のところに出て待ってるよ」

狭い部屋に店子たちの啜り泣く声がいつまでも続いた。


*************************************************


あっという間に七年の歳月が流れ去る。

大政が奉還され坂本龍馬が暗殺された。

鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まり、元号が明治と改まった。

版籍奉還、廃藩置県と世の中は目まぐるしく変わっていった。

しかし、庶民の生活に大きな変化はない。

蛇骨長屋の住人たちは、相変わらずその日を生きて行くのに忙しかった。

そんなある日、志麻は久しぶりに休みをもらい、溜まっていた洗濯物を洗いに長屋の水道井戸に向かった。

そこには先客、大工の正吉の女房お豊がいた。

「おはよう、お豊さん」

「志麻ちゃんかい、おはよういいお天気だね」

「洗濯一緒にやっていい?」

「ああ、構わないよ。私の分はもう直ぐ終わるからちょっと待ってな」

「ありがとう」

「今日は慈心さんの商売の手伝いはいいのかい?」

「うん、今日は休みを貰った。最近じゃ私より健太の方が口上が上手くなったから、任せても大丈夫なの」

「そうかい、そりゃ良かった。で、今日はどの辺りに出張ってるんだい?」

「今日は浅草に行くって言ってたわ。でも最近じゃ見せ物商売もあまりパッとしないわね」

「御一新からこっち、古いものは駄目だって風潮だからね。家を洋風に造りたがるやつばっかりで、うちの亭主も困ってたわ」

「そう、これから日本はどうなるのかしら?」

「日本がどうなろうと知ったこっちゃないよ。私らの暮らしはこれ以上良くも悪くもならないさ」

「そうかもね」

お豊がふと顔を上げた。

「志麻ちゃん、そっと木戸の方を見てみな。気味の悪い奴がこっちを窺ってるよ」

伽羅きゃらの上下に腰にサーベルを吊るした男が立っている。

目深に被った帽子のせいで、顔は見えない。

「ほんとだ、誰かしら?」

「ありゃ、最近できた取り締まり組(後の東京警視庁)の羅卒らそつだよ。いやだねぇ、昔も見廻組やら新撰組やら物騒な連中がいたけどさぁ、あいつらも同じようなもんだろ?」

「なんだか制服はカッコいいけどね」

「私はもう洗濯終わったから引っ込むけどね。気をつけなよ、なんかあったら大声をあげるんだよ」

「あはは、ありがとう、でも大丈夫」

「そうか、そうだったねあんた強いんだった」

「そんなに強くもないけどね」

「あら、ご謙遜・・・じゃ安心して引き上げるとするか」

お豊は洗濯桶を抱えると、長屋の奥へと入って行った。


お豊がいなくなると、羅卒が木戸を離れてこちらにやってくる。志麻は鶴瓶で水を汲みながら、いつでも動けるように身構えた。男の隙のない動きに、志麻の心に警報が鳴る。

一間の距離まで近づくと男は歩みをとめた。志麻は男を睨みつける。

「何か御用ですか?」

男は黙ったまま動かない。

「用がないなら帰って。さもないと痛い目見るわよ!」

男がククッと笑った。

「何がおかしいの」

「かわらねぇな・・・」

「え?」

男が帽子の庇を僅かに上げた。

志麻は驚愕のあまり動けなくなった。

「礼がまだだったな志麻。あの時はありがとう。おかげで今日まで生きてこられたよ」

「一刀斎・・・ほ、ほんとなの?本当に一刀斎?」

「そうか、俺の本名はまだ明かしてなかったよな。俺の名は斎刀一だ」

「サイトウ・・・ハジメ?」

「そう、一刀斎をひっくり返してみな」

「あっ!」

志麻の目からどっと涙が溢れた。

胸に飛び込みたい衝動をグッと抑える。

「さよなら・・・一刀斎」

「ん?」一刀斎が怪訝な顔で志麻を見詰める。

「そしてお帰りなさい・・・斎刀一」


斎刀一はそっと志麻を抱きしめた。




                      完




ここまで読んでくださり、心から感謝いたします。

物語を紡ぐ日々は、私にとって主人公たちと共に歩む旅でもありました。

最後まで見届けてくださったあなたがいて、この物語はようやく終着点に辿り着けたのだと思います。

またいつか、どこかで新しい物語をお届けできればと願っています。

そのときもどうか再びお付き合いいただければ幸いです。


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