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帰還

帰還


土塀に沿って歩くと、家の西側に立つ棟門むねもんが見えた。

志麻の父は津藩の番頭役百五十石の中級武士である。故に門にも一応屋根が付いている。

その門を潜ると正面に間口一間の広い式台がある。そこから六畳の玄関を経て十一畳の広い座敷に至る。しかしそこは高貴な人を迎える為の玄関であり、普段の客や家族は北にある土間玄関を使う。

志麻は表口と呼ばれる土間玄関に向かった。


「ただいま戻りました!」土間玄関に立って奥に呼びかける。

バタバタと足音がして、母のさかえが飛び出して来た。

式台の上に立って一瞬呆然と志麻を見下ろしたかと思うと、やにわに足袋裸足のまま飛び降り、ガバと志麻を抱きしめた。

「志麻っ!」

「母上、く、苦しい・・・」

「馬鹿!なんで仇討ちなんて危ない事やったのよ、あれだけ形ばかりでいいと言ったのに!」

イヤイヤをするように志麻を揺さぶる。

「わ、わかりましたから少し力を緩めて・・・こ、このままじゃ死んじゃう・・・」

「あら、そうね・・・」栄はあっさりと志麻の首に巻き付けた両腕の力を緩めた。「ごめんね、あなたの顔を見た途端、一気に緊張の糸が解けちゃって・・・」

栄が身を離すと、志麻がゲホゲホと咳き込んだ。

「あ、改めてご挨拶を・・・」

栄は足袋を脱いで式台に跪くと背筋を伸ばして志麻を見つめた。

「よく戻りましたね。ご苦労様でした」さっきとは打って変わって威厳のある態度だ。

「ご心配をおかけしましたが、お陰様で無事本懐を遂げる事が出来ました。それもこれも父上母上のお陰にて・・・」

「いいえ、みんな貴方のお手柄ですよ。きっと父上もお喜びなされます」

「お父上は?」

「まだお城から下がってきておりません。じき戻るでしょうからそれまで奥でゆっくり休みさい」

「はい」

志麻は形通りに頭を下げた。

「さてと・・・これで儀式は済んだわ。ほんと武家って面倒ね」

「母上、声が・・・」

「大丈夫よ隼人は学問所に行っているし、与作爺は津の湊までお使いに行ってるわ」

隼人とは、学問は出来るが剣の腕はからっきしという、父親にそっくりな志麻の兄であり、与作は志麻が生まれる前からこの家にいる下男の爺である。

「お花は?」

「さぁ・・・さっき裏の井戸にいたと思ったけど?」

下駄が砂利を踏む音が聞こえて志麻が振り返ると、表口にざるを抱えた花が立っていた。歳は、多分十六になったばかりだ、行儀見習いの為黒霧家に奉公に来ている商家の娘である。

「お花!」

「お嬢様!」

お花は抱えていた笊を取り落として志麻に駆け寄った。その拍子に洗い立ての大根が二本、土間に転がった。

「志麻お嬢様御無事だったのですね!・・・良かった、私、お嬢様が怪我でもしているんじゃないかって、気が気じゃなくて・・・」

感極まったのか、花が両手で顔を覆って泣き出した。

「心配かけてごめんね、ほら、私この通りピンピンしてるから」

志麻が慰めてもなかなか泣き止まなかった。

「お花、泣くのはおよし、志麻が困っているわ。それより濯ぎの水を持ってきておくれ」

栄が優しく言うと花はようやく顔をあげて微笑んだ。

「そ、そうでしたね、すぐに持って参ります!」

たもとで涙を拭って、花が大根を拾い上げて出て行くと栄が言った。

「ほら、みんな心配していたんだからね、もう無茶をするんじゃありませんよ」

「はい、母上・・・」

志麻は漸く家に帰って来たと思った。


*******


「志麻、ようやった。これで儂も上役や同僚に大きな顔をすることができる」城から下がって普段着に着替えた仁左衛門が、床の間を背にして座ると満面の笑みを浮かべて言った。「明日早速お前の帰還を藩庁に届けるとしよう」

「父上、よろしくお願い致します」志麻は畳に手をついて頭を下げた。

「だが、志麻のお転婆ぶりにも困ったものですな父上、無事に帰ったから良いようなものの、もし返り討ちにでもあっていたら、今頃は私が仇を討ちに江戸へ向かわなければならなくなっていたところです。仇を探すふりだけしていれば良いものを・・・」

「隼人、なんと言う事を!妹が命を賭して成し遂げた事を兄たる其方が悪し様に言うのは筋違いであろう!」栄が隼人を睨みつけた。

「しかし母上、今時仇討などと・・・長崎に続いて函館、横浜まで開港した今、我が国はそんな旧弊を厳守している時ではありません、今こそ西洋の学問を学び列強に追いつかなければ我が国は・・・」

「お黙りなさい!母はまつりごとのことなどよく分かりませぬが、学問を極めることが家族へのいたわりを忘れる事なら、学問などなんの役にも立たぬではありませんか!」

「しかし・・・」

「栄、まぁ良いではないか。隼人の言うことにも一理ある。儂も志麻が危険な目に遭うくらいなら、のらりくらりと江戸見物でもしていてくれたらと思わぬでも無かったのじゃ。しかし、こうして本懐を遂げて帰って来おった。その事はいくら褒めても褒めすぎると言う事はなかろうぞ、のう、隼人」

「は、はい・・・父上」

「兄上、ご心配をおかけして申し訳ありません」志麻は素直に頭を下げていた。

志麻には分かっていた、隼人は昔から素直に自分の心を言葉にする事が出来ない男なのである。

小さい頃は志麻を庇って、勝てぬ喧嘩を何度もした。志麻はいつかは自分が兄様を守るのだと、剣術の稽古に励んだのである。憎まれ口を叩いてはいても誰よりも妹の事を心配していたのに相違ない。

「ふん・・・」

隼人は口の端を下げてそっぽを向いたが、それ以上言い募る事はしなかった。

それぞれ表し方は違っていても、志麻の身を案じていた事には違いないのである。

「さあ、今夜は志麻の帰還祝いじゃ。いつものように䑓だいどころに場所を移して酒を酌み交わそうではないか」

仁左衛門の言葉に従って全員が立ち上がった。黒霧家の䑓所は竈門のある土間と続きの板張りで畳十畳ほどあり家族と使用人が一度に集える場所であり、身分制度の厳しい武家社会にあって黒霧家だけの特別の空間であった。

そこには与作爺とお花が、すでに全員分の善を用意して待ち構えていた。


*******


「それでは権太夫は茶店の娘に狼藉を働こうとして斬られたのではなかったのだな?」

右手の盃を干しながら、仁左衛門が志麻に念を押すように尋ねた。

「はい、叔父上はその娘を助けようとして斬られたのです」

「それは真か?」

「はい、仇の草壁監物の口から聞いた事なので間違いありません」

「あ奴め、生まれて初めて良い事をしてそれがあだになったとは・・・不憫な奴よのぅ」

「私も初めは本気で仇討ちなど考えておりませんでした。しかしそれを聞いた以上は・・・」

「うむ、お前が偶然に仇と逢うたのも、権太夫の引き合わせかも知れんのぅ」

「しかし、よくも首尾よくその仇を討ち取れたものよ」

「はい、蛇骨長屋に住む店子の仲間たちのおかげです、それに・・・」志麻は幽霊にもらった鬼神丸のことを言うべきか迷ったが、西洋の学問に傾倒する兄が信じてくれる筈もなく、また気まずい雰囲気になるのを恐れて黙っておく事にした。

「それに・・・なんだ?」

「いえ、運が良かったのです、きっと叔父上の力添えがあったのでしょう」

「そうか、志麻にそう言ってもらえれば、権太夫も草葉の陰で喜んでいるであろうよ」

仲が悪かったとはいえ、仁左衛門にとってはたった一人の弟である、最後に良いことをしたと聞いて思うところがあったのだろう。少ししんみりとした表情になった。

「何はともあれ、志麻が無事に帰って来たのです、湿っぽいお話はよしにしませぬか?」栄が話柄を変えるように促した。

「そう言えば、今日学問所で正木右京に会ったぞ」隼人が志麻に眼差しを向けた。

「えっ、右京さんに?」

志麻は少しドキリとした。右京は兄の隼人と同い年で、幼い頃から通う剣術の道場でただ一人勝てない相手だった。

「顔を合わせると奴はいつもお前の事を聞いてくる。志麻はいつ帰って来るのだとうるさくてしょうがない。明日にでも道場に顔を出してやれ」

「は、はい・・・」

「おお、それが良い。奥山阿十先生にも今回の首尾をご報告して参れ、きっと心配しておられるであろう」

「そうですよ、この前もわざわざお見えになられて、あなたの消息を聞いて行かれたのですよ」

「先生が?」

「そうですよ、先生はあなたの事を殊の外可愛がっておられましたからねぇ」

「分かりました、明日先生の所に顔を出して来ます」

「うむ・・・そうだ与作爺、先生への土産を何か見繕ってはくれまいか?」仁左衛門が下座でちんまりと畏まっている与作に声をかけた。

「へい、今日津の湊に灘からの下り酒が入っておりましたので贖って参りました」

「おお、それは良い、先生は酒がお好きだからのぅ」

「それにしてもお嬢様の無事なお顔を拝見して、この与作十年寿命が延びましたわい」

主人家族の会話に口を挟む事を憚っていたのであろう。与作が初めて志麻に口を聞いた。

「爺、心配かけてすまなかった、これからはせいぜい孝行するからきっと長生きをしてくれ」

「勿体無いお言葉ですじゃ、爺はただお嬢様の顔を見られるだけで・・・」

与作は目頭を抑えて俯いてしまった。

ここにも一人、志麻の無事を心から喜んでくれる人が居た事を、今更ながら志麻は知ったのだった。


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