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龍を呑んだ蛙

龍を呑んだ蛙


「ねえ、見て見て志麻ちゃん!ここが東海道随一の規模を誇る宮宿よ!」

江戸側の見附を通り越した瞬間お紺が大声を張り上げた。

「本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠に至っては三百軒に手が届くって勢いよ!」

宮宿は東海道を江戸から数えて四十一番目の宿場である。美濃路や佐屋街道との分岐点でもある為、伊勢参りの客で賑わっていた。

熱田神宮の門前町で、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と記される事もあった。

「お紺さん、盛り上がっているとこ悪いんですけど、今日はこの宿場には泊まらないわよ」

志麻が冷ややかに言い放つ。

「ええっ、なんで!」

「だって、岡崎でだいぶ時間を喰っちゃったから少しでも前に進まなきゃ、今からならまだ最終の渡し船に間に合うわ」

宮宿と桑名宿の間は、東海道唯一の海路で繋がっている。有名な『七里の渡し』である。

陸路を行けば一日掛だが船を使えば三刻ほどで桑名に着く。桑名はもう伊勢国、志麻の故郷、津の城下町は目と鼻の先だった。

「今日中に伊勢国に入りたいの」

「なんでよぅ、そんなに急がなくってもいいじゃないさ、お伊勢さんは逃げも隠れもしないんだからぁ」

お紺が駄々っ子のように腰をくねらせる。

「私には仇討ち成就の報告をする義務があるの、お伊勢参りはお紺さん一人で行くのよ」

「そんな事わかってるけど・・・」

お紺にもそれはわかっているのだが、いざ志麻と別れるとなると寂しくてしょうがない、一日でも長く志麻と過ごしたくてわざと言っているのだ。

「あっちは船が苦手なんだよねぇ・・・あっ、そうだ佐屋街道を通って行かない?」

「ダメ、随分遠回りになるし今からだったら万場宿あたりで日が暮れるわ、そうなったらまた一日遅れてしまう」

「どうしても・・・駄目?」

「ダ・メ!」

シュンと項垂れるお紺を連れ、志麻は両側に建ち並ぶ旅籠には目もくれず、七里の渡場のある海岸に向かって足を早めた。やがて海岸の鐘楼が見え始めた頃・・・

「ちとものをお尋ね致す」

正面から歩いて来た若侍に声を掛けられた。

志麻は思わず立ち止まった。本来なら先を急ぐので足を止めたくはないのだが、若侍ののんびりとした口調や柔らかい物腰に、機先を制せられた形となった。

剣の勝負なら、先手を取ったつもりが柔らかく返されて動けなくなった状態と言おうか。

思わず若侍の顔を睨み返してしまった。

「何です、急いでるんだが?」

つい、男言葉でつっけんどんな言い方になってしまう。

「これは失礼した、貴殿の足運びがあまりに見事だった故」

「足運び?そんな事でわたしを呼び止めたのか?」

「い、いや、かなりの剣の技量とお見受け致す、そんな貴殿なら知っておられようと思いまして」

「何をです?」

「この辺りに住まいしているという、井蛙呑龍斎せいあどんりゅうさいという剣術の達人を」

「せいあ・・・?」

「井の中の蛙と書く、龍を呑み込んだ蛙とはいずれ変わった御仁であることは間違いないが・・・」

「私は聞いた事がない、だいいち私はここの住人では無い」

「そうですか・・・いや、足をお止めして申し訳ない、他を当たってみます」

失礼、と言って若侍は踵を返した。

「待て!」

我知らず引き止めていた。

若侍は躰を捻る事なく振り返った。

この人かなり出来る、と志麻は思った。こんな剣客の探している剣の達人って一体・・・

「その人はどんな人なのだ?」

若侍はニッコリ笑った。白い歯が清々しい。

「興味がおありですか?」

「う、まあ・・・」

「その方は、さる大藩の御前試合で相手の剣士をたった一太刀で打ち倒し、藩の剣術指南役に推挙されるのではないかと噂されていたのですが・・・」

「え?」

「いつの間にか姿を消してしまったのです」

「そんなすごい人が何故・・・?」

「きっと指南役になるのが嫌だったのでしょう、私にはわかるなぁその気持ち」

若侍が遠い目をして空を仰いだ。

「貴殿がもしその立場だったら同じことをしたと?」

「ええ、窮屈なのはごめんですから」

「・・・」

志麻にもその気持ちは少し分かる気がした。お城で剣術を教えるよりも、長屋に住む一刀斎や慈心おじいちゃんの生き方の方がずっと自由だ。

「ああ、申し遅れましたが拙者は佐伯清之進と言います、いずれ何処かでお会いする事もありましょう」

「黒霧志麻・・・」志麻も慌てて名乗った。

「志麻・・・さんですか、覚えておきましょう」

では、と頭を下げて佐伯清之進は何処へか立ち去った。

「志麻ちゃん、誰、知り合い?」

遅れて追いついたお紺が走り寄って来た。

志麻はお紺の顔を見るなり言った。

「お紺さん、今日はこの宿に泊まるわよ!」

「え、ええっ!どうしたのよ急に!」

「さ、宿を探しましょう!」


志麻は踵を返し、今来た道を戻り始めた。


*******


宿に入ってから志麻はお紺にさっき聞いたことを話した。

お紺はやっと合点がいったらしくこう言った。

「急に泊まるなんて言い出したから、てっきりあの若侍におかぼれしたのかと思って心配しちゃった」

「もう、お紺さんたら早とちりなんだから」

「だってそこそこ良い男だったじゃない、あっちだったら宿を聞いてたわよ」

「御愁傷様、私にその気は無いわ」

「あんたもその井の中の蛙・・・だったっけ?」

井蛙呑龍斎せいあどんりゅうさい

「そうそう、そのセ・イ・アなんとかって人を探すんだろ?」

「うん、そんな凄い人なら是非会って手合わせしてみたい」

「でもいいの?仇討ちの報告が遅くなるわよ?」

「私に取ってはこっちの方が大事、背に腹は変えられない」

「剣客のさがね、因果なものだわ」

「だからお願い、明日から暫く別行動にしたいの」

「いいわ、私は一人で熱田の町をぶらぶらしてるから。でも夜は必ずここへ帰って来るのよ」

「うん、三日探して見つからなかったら諦めるから」

「いいわよ、わっちは全然急がないから」

「お紺さん、ありがとう」


その夜、志麻は早めに床についた。


*******


翌朝早く、まだ眠っているお紺を起こさないように宿を出た。

目抜通りには江戸から来た伊勢講の人達が、朝一番の船に乗る為にゾロゾロと渡船場に向かっている。皆、晴れやかな顔をしているのはいよいよ伊勢が近くなったからであろう。

「みんな楽しそう・・・」足早に追い越す大勢の背中を見送りながら、志麻はハタと立ち止まる。

「私、どうやって探すつもりなんだろう・・・」分かっているのは名前だけ、容姿の特徴も年齢さえも知らないのだ。

「しまった、ちゃんと聞いておけばよかった・・・」後悔したが後の祭りだった。

兎に角誰かに聞いてみようと思い直して辺りを見回していると、出立の客を見送った旅籠の仲居と目が合った。

「あの、ちょっとお尋ねしたいのですが・・・」志麻は仲居に歩み寄る。

「はい、何でございましょうか?」 

井蛙呑龍斎せいあどんりゅうさいという人をご存知ありませんか?」

「せいあ?さぁ、聞いたこともございませんが・・・どの様なお方なのでしょう?」仲居が怪訝な顔で訊いた。

「剣の達人です」

「剣の達人?それならば美濃路を北へ上って尾張の御城下を探された方がよろしいのでは御座いませんか?」

「尾張?」

「はい、尾張には柳生様が居られます、御門下で剣のお上手な方も沢山いると聞きました」

柳生ならばすでに将軍の指南役、何も姿を隠す必要はあるまい。それにあの若侍がこの辺りを探しているとなると・・・

「いえ、柳生の御門下ではないと思うのですが」

「年齢や背格好などは分からないのですか?」

「実は名前以外何も分からないのです」

仲居は呆れた筈だ。熱田は人口一万人以上の大きな宿場町なのだ、名前だけで人を探そうなんて藁小屋の中に落ちた針を探すようなものだとその顔に書いてある。

「どうもお力になれませんで・・・」

「い、いえ、ありがとうございました」

志麻は仲居に礼を言って通りを歩き始めた。そろそろ土産物屋や食べ物屋が店を開け始めている。

「しょうがない、片っ端から聞いてみるか」

それから志麻は目に付いた店を虱潰しに聞いて回ったが、朝の仲居と同じように皆気の毒そうな顔をして首を横に振った。

そうこうしているうちにいつの間にか昼になっていた。一町ほど先の一膳飯屋の暖簾が目に入った途端、腹の虫がグゥと鳴いた。朝から何も食べていなかった事を思い出す。

「よし、聞き込みついでにあそこで饂飩でも食べよう」

『亀屋』と染め抜かれた暖簾を潜ると元気な声が聞こえて来た。

「いらっしゃい!どうぞお好きな席へ!」

奥に空いている席を見つけてそこに座る。先ほどの声の主であろう、小柄な娘が注文を取りに来た。

「お侍さん、何にする?」

志麻の若衆姿を見て男と勘違いしたのだろう。志麻は訂正するのも面倒なのでそのままにしておく事にした。

「そうだな、饂飩を一杯貰おうか、それと・・・」

志麻は井蛙呑龍斎について聞こうと思ったが、店の混み具合を見て止めた。客が減ってから聞く事にしよう。

「酒を冷やで一合」

「はい分かりました、ちょっと待っててね!」

娘はバタバタと厨房に注文を伝えに行った。

午前中歩き回ったせいで喉が渇いた事もあるが、お紺と旅をするうちに食事時に酒が欠かせなくなって来たのも事実である。酒でも呑んでゆっくり待つとしよう。

「私もすっかり親父化しちゃったな」志麻は自嘲気味に呟いた。

饂飩を食べ終え二合目の酒も半ば呑んだ頃、やっと客もまばらになって来た。

そろそろ良いかと娘を呼ぼうと思った時、皿の割れる音がした。

「なんだなんだ!この店は客にこんなものを喰わせようってのか!」

流れ者の旅人が箸でコオロギを摘んで娘に向かって怒鳴り声を上げている。

「だってお客さん、もうほとんど食べ終わってるじゃない、そんなのもっと早く気が付く筈でしょう?」娘が言い返す。

「何だと、それが客に向かって取る態度か!」

流れ者が拳で卓を叩いた時、奥から腰の曲がった老婆が出て来た。

「たまに居るんだよね、あんたみたいなの。ここにはいろんな流れ者がやって来るからいちいち相手になってちゃ商売あがったりだ!」

娘に劣らず気の強い婆様だ。こういう場所で商売をやって行くにはこれくらいでなけりゃだめなのだろう。

「なんだと、もう許せねぇ!」

流れ者が道中合羽と一緒に置いてあった長脇差を鷲掴みにして立ち上がった。

「そんなもんが怖くて大根が切れるかってんだい!さぁ、抜いてみやがれ!」

江戸っ子のお紺に聞かせてやりたい台詞だったが、流れ者は逆上した。

「婆ぁ!どうせ遠からず迎えが来るんだ、その前に俺が冥土に送ってやらぁ!」

ギラリと長脇差を抜いた。

「ばあちゃん!」娘が前に立ち塞がるが、流石に刃物を見て息を呑んだようだ。

「やめろ!」

志麻が後ろから声を掛けると、流れ者が振り返った。

「なんだ手前ぇは!関係ねぇ奴はすっこんでろ!」

「お、お侍さん大丈夫だから下がってて!」娘が気丈に言った。

「そうはいかない、そんなもの振り回されちゃ私だって迷惑だ。さ、男なら表へ出て一対一で勝負しようじゃないか?」

「おう!ちょうどいい、こんな小娘や婆ぁを斬るよりお前ぇを叩っ斬る方が後生がいいや!」

流れ者は振り上げた拳の落とし所を見つけて、勇んで表に飛び出して行った。

「お侍さん・・・」娘が出て行こうとする志麻の袖を引いた。

「大丈夫、すぐに済む」

志麻は流れ者の後からゆっくりと暖簾を潜って通りへ出て行った。

何事かと野次馬が集まって来る。

流れ者は長脇差を右手に持って腰を落とした。

「抜きやがれ!」

「いや、このままで良い」志麻は手をだらりと下げて真っ直ぐに立ったままだ。

「そうかい、青二歳後悔するんじゃねえぜ!」

ペッと唾を吐くと、流れ者は無茶苦茶に剣を振り回す。何の理も法則性も無い無軌道な太刀筋は、未熟な剣術者にとっては返って遅れをとる要因となる。しかし志麻にとっては与し易い相手だった、流れ者の肩から先は忙しなく動いてはいるものの、躰の正中線は全くと言っていいほど動いてはいない、否、動く度に正中線が消える。正中線の無い相手は弱い。志麻はただ真っ直ぐに歩いて懐に入っていくだけで良かった。

流れ者は剣を振る度に志麻に投げ飛ばされ道に這いつくばった。

何度目の投げの後だったか、流れ者は手をついてやっと立ち上がったがもう剣を振るう気力を失っていた。ただハァハァと苦しそうに肩で息を吐いている。

「何度やっても同じ事だ」

志麻がそういうと、流れ者はガクリと膝を折った。

「お代は要らないよ、これを持ってとっとと失せな!」

いつの間にか娘が手にしていた振り分け荷物と三度笠を流れ者の足元に投げた。どこまでも気丈な娘である。

流れ者はノロノロと荷物を拾うと、野次馬を掻き分けおぼつかぬ足取りで人混みの中に消えていった。

その間ジッと志麻の動きを見ていた男がいたが、志麻が気付く前に野次馬と共にいなくなていた。

「お侍さん強いねぇ、おかげで助かったよ!」

娘が近寄って来て言った。

「いや、あ奴が弱かっただけだ」

「いくら弱いと言ったってダンビラ振り回す奴を素手で・・・あれ?」

娘が何かに勘づいたように首を傾げてマジマジと志麻の顔を見る。志麻は視線を外して空を仰いだ。

「お侍さん・・・ひょっとして・・女?」

志麻は観念したように娘に視線を戻す。女と知られたからには無理に男言葉を使う必要はない。

「別に隠すつもりは無かったんだけど・・・」

「あ、やっぱり女だ!凄い凄い!私こんな強い女の人初めて見た!」

あんまり娘がはしゃぐので志麻は困ってしまった。

「朱美あんまり騒ぐとまた野次馬が集まって来るじゃないか、さっさと店に入りな」

老婆が店の暖簾から顔だけ出して手招きしている。

「あ、ごめんおばあちゃん!」

娘が志麻の手を取った。

「さ、店に入ろう」

志麻も人目を避けるためにはその方が良いと思ったので大人しく従った。

店に入ると小上がりの座敷に上げられた。老婆が恭しくお辞儀をする。

「改めてお礼を申し上げます、危ない所をほんにありがとうございました、ほれ朱美もお礼を言いな」

「お侍さん・・・じゃなかったわね、なんて呼んだらいい?」

「朱美、恩人に対して失礼だよ」老婆が娘を諌める。

「いえ、そんなことはありません、志麻と呼んで下さい」

「きゃっ!志麻さんね、私は朱美、これは私のおばあちゃんでお亀。今日は本当にありがとう、実はとっても怖かったの」

見ると膝に置いた朱美の手が小さく震えていた。

「朱美ちゃんはいつもあんな無茶をするの?」

「ここは孫と二人でやってるんでね、客に舐められないようにする為には強く出るしか無いんですよ」朱美に代わってお亀婆が答える。

「そうですか、それで朱美ちゃんは気丈に振舞っていたのね」

「そう言うこと」朱美はあっけらかんと言い放った。

「それにしてもさっきは胸がスッとしたよ、一体どこであんな技覚えなすった?」お亀婆が訊く。

「はあ、津の城下の道場で・・・」

「志麻さんのお国は伊勢なの?だったらお隣じゃない」朱美が目を輝かせる。「いつでも会いに行けるわね」

「朱美、いくらお隣だからってそうそう行けるもんじゃないよ、それに店はどうするんだい?」

「『〽︎惚れて通えば千里も一里〽︎逢えずに帰ればまた千里』」朱美が変な節回しで唄った。

「え???」

「都々逸ですよ、ほらこの辺が発祥だから・・・って朱美そんなのどこで覚えた?」お亀婆が明美を睨む。

「へへ、内緒」

「まったく、色気付くのはまだ早いってんだ」

この二人の調子に巻き込まれては堪らない、志麻は話の矛先を変えて目的の事を聞く事にした。

「あの、お二人に尋ねたい事があるの・・・」遠慮がちに発言する。

「え、なになに?何でも訊いて」

井蛙呑龍斎せいあどんりゅうさいという人を知らない?」

「え?誰それ?」

「剣の達人という他は何もわからないの」

「・・・」

二人が顔を見合わせて黙ってしまったので志麻は肩を落とした。

「やっぱり知りませんよね、そんな人・・・」

「待って、その名前どこかで訊いたことがあるなぁ・・・」朱美が首を捻った。

「えっ、知ってるの!」朱美の返答に思わず声が上擦った。

「お婆ちゃん、昨日来た若いお侍さんも同じこと聞いてなかった?」

「そういえばそんな事を言っていたねぇ、変な名前だったからなんとなく覚えてるよ」

「で、何処にいるんですその人!」勢い込んで志麻が訊いた。

「違うのよ志麻さん、私たちはお侍からその人の名前と特徴を聞いただけ」

「そ、そうだよね、すっかり早とちりしちゃった・・・御免なさい」

「ふふ、志麻さん可愛い」

「え・・・」

「冗談よ。で、その特徴というのはね」

「ちょ、ちょっと待って、紙に書くから」

志麻は懐から懐紙と矢立を取り出した。

「はい、お願い」

「え〜と、歳は六十前後、身長は私くらいだっていうから四尺一寸ほどね」

「意外に歳ね、それに男にしてはえらく小柄」

「私のせいじゃないわ」

「そ、そんな意味じゃ・・・」

「もう、志麻さんったら冗談通じないんだからぁ」

「あ、ああ・・・」

「朱美、お前が巫山戯ふざけすぎなんだよ、ちゃんと答えてやりな」お亀がまたしても朱美を睨む。

「は〜い、でね顔は面長、髪は白髪と黒髪が半々くらいでやっと髷が結える程度なんだって」

「ふむふむ・・・」

「眉毛は白くて目が隠れるくらいに長い毛が生えてて・・・」

「白くて長い、と・・・他には?」

「鼻は鷲鼻で上唇が薄い」

「それだけ?」

「それだけ」

「う〜ん、年寄りには良くある風体ね・・・」

「朱美、あのお侍左眉の上に大きな黒子ほくろがあるって言ってなかったかい?」お亀が横から口を挟んだ。

「あ、そうそう忘れてた!」

朱美が大きく頷いている。

「それはいい目印になりそう」

最後に志麻がチョンと筆を動かしてから、懐紙を裏返した。

「え、何これ!」

「絵は得意なんだ」

「お役所の人相書きより上手!」

「本人に似ているかどうかは分からないけど」

「そのお侍さんも又聞きだって言ってたけど、これなら絶対見つかるよ」

「だといいんだけどね・・・」

「志麻さん、同じものをもう一枚描いておくれでないかい?」お亀が言った。

「え?」

「店の客や近所の人に聞いといてやるよ」

「ありがとう、お亀さん恩に着ます」

「いいって事よ、助けてもらったお礼だぁね」

「やったぁ!じゃあ何かわかったら私が知らせてあげる!」

朱美は満面の笑みで胸を叩いた。また志麻に会えるのが嬉しいらしい。

「よろしくお願いします」


志麻はもう一枚似顔絵を描くと泊まっている旅籠の名を書いて朱美に渡し、一膳飯屋を後にした。


*******


「ふ〜ん、それで何かわかったのかい?」宿の部屋でお紺が似顔絵を見ながら訊いた。

「よく似た人を町中で見かけたって人はいたけど、どうやらこの宿場の人ではないみたい。どこに住んでいるか皆目見当が付かないわ」

「へぇ、似た人はいたんだ」

「でもね、お侍じゃないみたいなんだ、刀も差してなかったって言うし・・・」

「剣術の達人が刀を差してないなんて有り得ないわね」

「お紺さんもそう思う?」

「まぁ、常識で考えればね」

「また明日、一から出直しね」

志麻は似顔絵をお紺から引き取ると懐に入れた。

「ところでお紺さんはどこへ行ってたの?」

「あっちかい?あっちは熱田神宮にお参りさ、さすが日本第三の鎮守と言われるだけあって、すんごい人出だったわよ」

「そう、私も明日はそっち方面を探してみようかな?」

「そうねぇ、人が集まる所だからひょっとするとひょっとするかもね・・・」

あっ、とお紺が手を叩いた。

「あのさ、今日岡崎から来たって旅人から面白い話を聞いたよ」

「なになに?」志麻が身を乗り出した。

「わっちらが泊まった岡崎の三河屋ね、今大評判なんだってさ」

「え、どうして?」

「化け猫の出る宿だって怖いもの見たさの連中が押し寄せて、押すな押すなの大盛況らしいよ」

「へぇ、何が幸いするか分からないわねぇ、これでご主人の忠吉さんもお登勢ちゃんも一安心ね」

「もうタマは化け猫になることはないだろうけど」

「それでいいのよ、あんなことは二度と起こっちゃいけない」

「そうねぇ、お登勢ちゃんには幸せになってもらわなくっちゃ」

「そう言う事」

何となく二人でしんみりしてしまった。

「さ、明日も早いんでしょ?もう寝なきゃ」

「うん、お紺さんありがとね」

「見つかると良いわね、剣の達人」

「うん」


志麻はフッと行燈の火を吹き消した。


*******


次の日、志麻は熱田神宮に向けて宿を出た。

伊勢の入海に向けて鎮座する熱田の宮は、早朝にもかかわらず沢山の参拝客で賑わっていた。

鳥居の前の堀に掛かる太鼓橋を渡った。拝殿まで続く広い参道は、江戸の正月の初詣と見紛うほどの混み具合である。

志麻は刀のこじりを人にぶつけないように、落とし差しにして歩かなければならなかった。

この神社の祭神は天照大神あまてらすおおかみ御霊代よりしろ草薙神剣くさなぎのみつるぎである。志麻とて武人の端くれ、素戔嗚尊すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろちの尻尾から取り出したと言われる神剣に興味がない訳では無い。しかしこの混み具合では本殿まで行く間に心が折れそうだ。やはり町の方を探せば良かったと後悔し始めた時、見覚えのある顔を大きな杉の木の下に発見した。

七里の渡し場に向かう道筋で志麻を呼び止めた男、志麻をこの宮宿に止まらせた男、確か名前は・・・

「佐伯清之進!」

志麻は人の流れに逆らって佐伯のいる方に向かおうとした。もしかしたら井蛙呑龍斎せいあどんりゅうさいの居所を見つけ出したかも知れない。

すみませんごめんなさいと人を掻き分け進んでいると、参拝の人たちが迷惑そうに志麻を睨んでくる。しかしここで佐伯を見失う訳には行かない。志麻は泳ぐようにして杉の大木に近づいた。

もう少しで佐伯に声をかけられそうなところまで近づいた時、不穏な声が聞こえて来た。

「いたぞ、佐伯清之進だ!」

佐伯はハッとした様子だったが、別段慌てる様子も無い。

参拝客を乱暴に押し分けながら侍がわらわらと駆け寄って来て、佐伯はいつの間にか五人の男達に囲まれていた。

「佐伯!もう逃さぬ覚悟しろ!」男の一人が刀の柄に手を掛けた。

参拝客が悲鳴をあげて後退りしたので志麻も押し戻されてしまった。

佐伯と五人の侍は杉の大木を真ん中に、参拝客に周りを囲まれる形となった。

「我等を裏切って敵に弟子入りしようなどとはどう言う了見だ!」別の男が言った。

佐伯は困ったなと言った表情で頭を掻いている。

「別に貴殿等を裏切ったつもりは無い、俺はただ俺の求める剣を見つけたいだけだ」

「なにっ!お前は師匠の剣を愚弄するつもりか!」

「いやぁ、師匠はもちろん一流の剣客に相違ない、が、あの人は師匠を遥かに凌駕する剣の使い手だ。貴殿らも剣を極めんとするなら義理人情に拘っている暇はあるまい」

佐伯の言うあの人とは、井蛙呑龍斎のことだろうと志麻は思った。

「詭弁を弄すな!師の仇を討つのは弟子の役目、ここで会うたが身の不幸と観念致せ!」

「困ったなぁ、そんなつもりはないのだが・・・」

佐伯は心底困った顔をした。

「抜け!」そんな佐伯に剛を煮やして男が叫んだ。

「待て岩隈、いくら何でもここじゃまずい!」

「そうだ、神域を汚したら俺たちだってタダじゃ済まんぞ!」

仲間に止められて岩隈と呼ばれた男が呻いた。

「ぬぬ、ならばどうする酒井!」

「場所を変えよう・・・いいな佐伯?」酒井が言った。

「酒井さん、貴方はもっと話の分かる人かと思っていたんだが・・・嫌だと言っても逃してはくれないんだろうね?」

「あたりまえだ!」岩隈が吠える。

「じゃあ仕方がない、貴殿らについて行くよ」

「良い覚悟だ、おとなしくついて参れ!」

佐伯を真ん中に、男達が移動を始めると参拝客達はとばっちりを恐れて道を空けた。

「何だか穏やかじゃないわね・・・」

考えるまでもなく、志麻はその開いた空間を通って男達の後を追った。


熱田宮の東の道を堀に沿ってしばらく行くと、田畑の広がる場所に出た。

その中にまるで島のように見える一角がある。古い神社か墓地のようだが、周囲を松の木に囲まれ中の様子は見え難い。

「あそこが良かろう!」岩隈が指を指す。

六人の男達は黙々と歩を進める。

志麻は気取られぬ様に尾行をする必要は無かった、周りは見渡す限りの田園風景、男達がどこへ行くのか一目瞭然である。

佐伯は怯えた様子もなく、されど油断することもなく男達に従っている。

先ほどの話で佐伯と男達の関係は大体分かった、あとは佐伯がどう対処するかだ。特に親しい仲でもないので助ける義理はないのだが、みすみす殺されるのを黙って見ているわけにも行くまい。それに井蛙呑龍斎の情報を持っている可能性もある。


男達が目的の場所に入って行く。志麻も距離を置いて着いて行った。男達がすっかり見えなくなってから近づいて見ると小さな鳥居が立っていた。朱の色も剥げ落ちているのでかなり古いものの様だ。

鳥居の陰から中の様子を窺うと、小さな拝殿の前で佐伯が五人の男達に囲まれていた。

岩隈という男の大声が聞こえてきた。

「さあ、さっきの続きだ観念するんだな!」岩隈が刀を抜いた。

「ちょっと待て岩隈さん、俺を殺したら呑龍斎の居所は分からないぞ」

「知っているのか?」

「ああ、まだ確かめたわけじゃないが十中八九間違いない」

「ならば先に教えてもらおうか」

「教えたら俺を見逃してくれるか?」

「ふん、命乞いか?俺たちはお前を痛めつけて吐かせる事も出来るんだぜ」

「残念だなぁ、俺は元同門の貴殿等を斬りたくないだけなんだが・・・」

「なんだと!俺たちが貴様に斬られるとでも言うのか!」

「岩隈、佐伯の挑発に乗るな、俺たちの目的は井蛙呑龍斎を討つ事だ。佐伯の事はその後で良い」

「酒井、お主はそれで良いかもしれんが俺は我慢ならぬ、こいつを先に血祭りに上げて呑龍斎討伐の景気付けにしてやる!秋山、村田、近藤、どうだお主等もそうは思わんか!」

三人が一斉に刀を抜いた。

「応!我が流派と師を侮辱した罪は許せん!」

「それに、こいつが本当の事を教えるとは限らんだろう!」

「居場所を知っていると言うのも命が惜しい為の虚言かも知れん、呑龍斎の居所なら俺たちで探せば良い!」

「待てみんな、我らがあれだけ探しても噂一つ聞けんのだ。これ以上時をかけるわけにはいかぬ、呑龍斎を取り逃しては元も子も無かろう。それにお主達も佐伯の腕は存じておろう、たとえ佐伯を倒せても、我々とて無傷ではいられぬ、呑龍斎を倒す前に戦力の低下を招く真似は控えるべきだ」

「さすが酒井さんその通りだ、俺を殺してもなんの得にもならないよ。それにここで俺を斬れば宿場の噂になる、そうなれば呑龍斎がここに止まる理由は無い」

「こいつ、足元を見おって・・・」

「どうだ佐伯、呑龍斎の居所を教えてくれればこの場は見逃そう、約束する」酒井が言った。

「岩隈さん達もそれで良いんだな?」佐伯が訊く。

岩隈が忌々しそうに刀を納めると、他の三人も渋々刀を鞘に戻した。

「これで良いな?」酒井が訊いた。

「ああ」

「で、呑龍斎は何処にいる?」

「ほうろく地蔵は知ってるか?」

「うむ」

「そこを左に行くと佐屋路だが、岩田宿を流れる庄内川に沿って遡ると美濃街道にでる峠がある、そこの甘酒屋の親父が呑龍斎に似ているそうだ」

「なに、甘酒屋だと?」

「俺も最初は耳を疑った、だが追手から身を隠すにはそれも一つの方便だ」

「しかし、武士を捨てるとは」

「藩の指南役を蹴ったくらいだ、武士にも未練はなかったんだろうよ」

「ふ〜む、しかし解せぬ・・・」

「酒井、もう良い・・・」

「ん?」

振り返ると岩隈が刀を抜いた。

「岩隈、何をする!お主約束を反故にするつもりか!」

「命を取るとは言わん、だが腕の一本も貰わなくちゃ腹の虫が治らぬ!」

「我等もだ!」秋山、村田、近藤の三人も岩隈に倣う。

「お主等!」酒井が叫んだ。

「いいんだよ酒井さん」佐伯が酒井の肩を叩く。「どのみちタダで済むとは思っちゃいなかったよ」

「酒井、退け!退かなけりゃお主も斬る!」

「うぬぬ・・・」

その時、一番後ろにいた近藤が呻き声を上げた。

「逃げて!」

志麻である。鳥居の陰から疾風の様に飛び出して、鬼神丸の棟を返して近藤の右肩を打ったのだ。

「し、志麻さんどうしてここに!」

「早く!説明してる暇はない!」

「誰だ!」

岩隈が振り向くと同時に佐伯が動いた。襟首を取りざま膝の裏に蹴りを入れる。

岩隈は地面に後頭部を打ちつけ昏倒した。

視線の先では村田が志麻に胴を払われ蹲っている。

「ほう、やるな」

ウオォォォ!雄叫びをあげて秋山が斬りかかってきた。

佐伯は横に跳んで躱すと素早く秋山の懐に飛び込んで鳩尾に当て身を入れた。秋山は反吐を吐いて地面に突っ伏した。

一瞬の出来事に酒井は呆然として突っ立ったままだ。

志麻が鳥居を抜けて走り去るのが見えた。

「酒井さん、俺も逃げる!」

「佐伯、お主・・・」

「大事は無い筈だ、岩隈さん達の介抱を頼む」


佐伯は志麻と反対方向に走り、松の木の間を抜けて畑地に飛び込んで東の方に逃げて行く。

酒井は佐伯の背中をいつまでも見送っていた。


*******


「へぇ、あんたまた厄介なことに首を突っ込んじまったねぇ」話が終わるとお紺が呆れ顔で志麻を見た。「でもその佐伯って若侍、なんで仲間を裏切っちまったんだろうね?」

「本人も言ってたけど、自分の求める剣を見つけてしまったんだと思う」

「あっちにはよく分からないね、それは命よりも大事なものなのかい?」

「武士にとっては負けると言うことは死ぬ事を意味する、矛盾してるけど生きるためには死も厭わないと言うことだよね」

「ふ〜ん、でもあんたは違うんだろ、武士じゃ無いんだから」

「わかんない、でも強い人がいればやっぱり戦って見たいと思う」

「そこで修行が終わってもかい?」

「う〜ん、今はそうだと言うしか無いかな」

「やっぱりあっちには分からないね、志麻ちゃんみたいな娘は結婚していいお母さんになるのが幸せと思うんだけど」

「ごめんねお紺さん、私のわがままに付き合わせちゃって」

「そんな事かまやしないけど・・・」

その時部屋の前で足音が止まった。

「失礼致します」廊下側の障子が開いて仲居が顔を覗かせた。「お客さん、亀屋の朱美さんという方がお見えですが?」

「え、朱美ちゃんが?」

「こちらにお通ししてもよろしいですか?」

「志麻ちゃん朱美って?」

「ああ、昨日話した一膳飯屋の娘さん、呑龍斎の事を調べてくれてるの」

「そう」

「あの、仲居さんその人をこちらにお通しして下さい」

志麻が仲居に頼むと、仲居は障子を閉めて戻って行った。暫くすると元気な足音が近づいて来た。

「志麻さん朱美よ入っていい?」

「どうぞ」

「失礼しま〜す!」勢いよく障子が開いた。

「あっ・・・」

「どうしたの朱美ちゃん?」

「い、いえ、お連れさんがいるって知らなくて・・・」

「遠慮しなくていいよ、あっちはお紺、志麻ちゃんとは江戸からずっと一緒に旅をして来たんだ、まぁ言うなれば女の弥次喜多道中さね」

お紺が冗談めかして言ったので朱美の警戒心も解けたようだ。

「じゃあ、遠慮なく失礼します」

朱美は部屋に入ると障子を閉めて膝を折った。

「初めまして朱美と言います」お紺に向かって頭を下げる。

「まぁ、礼儀正しい娘だねぇ」

「これ、お口に合うかどうか分からないけど食べて下さい」朱美が竹の皮包みを志麻の前に置いた。

「なにこれ?」

「お婆ちゃんの作ったふかし饅頭、昨日助けてもらったお礼です。私が言うのもなんだけどとっても美味しいのよ」

「そんな、気にしなくて良いのに」

「ううん、お婆ちゃんも喜んでた、これからの女はあれくらい強くなくちゃって」

「そう、お婆ちゃんによろしく伝えておいてね」

「はい」

「で、わざわざ来てくれたのはどうして?」

「あ、そうそう忘れるところだった。今日美濃路の清須宿から来た行商のおじさんが志麻さんの描いた絵に似てる人を見たんだって」

「え、何処で?」

「ほとんど地元の人しか使わない美濃路から佐屋街道に抜ける山道があるんだけど、そこの峠に甘酒を売っているお爺さんがいたんだって」

「やっぱり・・・」

「え?」

「いや、なんでもない、続けて」

「行商のおじさんが、こんな所で甘酒を売ってても儲からないだろうって聞いたら、その人は日々食べて行けるだけの銭が稼げれば良いって言ってたそうよ。欲のないお爺さんね」

「それひょっとして庄内川に沿って上流へ遡った所?」

「ううん、そのお爺さんのお店は万場宿の先から新川を遡った所にあるの」

佐伯は確かに庄内川を遡ると言っていた。志麻は佐伯清之進が岩隈達に間違った情報を伝えていた事を知った。佐伯自身定かには知らないのか、それともわざと嘘の情報を伝えたのか・・・

「実はね、私もある人からその人が甘酒屋をやっているって聞いたの。でも、その場所は庄内川の上流だって・・・」

「あっちにも山越の道はあるけど険しくて店なんてある筈ないわ。そんな事土地の人ならみんな知ってる」

やはり佐伯は嘘の情報を伝えたのか・・・岩隈達はきっと庄内川を遡るに違いない、その間に佐伯は新川を遡って呑龍斎に会いに行くつもりなのだろう。

「ありがとう朱美ちゃん、私、夜が開けたら行ってみる」

「良かった、お役に立てて!」

朱美が嬉しそうに言った時、またもや障子の外から声がした。

「失礼します、お客様がお見えですが」

志麻はお紺と顔を見合わせた、今度は誰だろう?

「どなたです?」

「佐伯様というお武家様ですが」

「えっ?」

志麻は驚いてしまった、どうしてこの宿が分かったのか・・・

「どう致しましょう?」

佐伯には色々と確かめたい事もある。お紺に了解を求めると快く頷いてくれた。

「こちらに通して下さい」

仲居が下がると入れ替わるようにして佐伯が入って来た。

「ずいぶん探しました」

佐伯は膝を折って座ると畳に手をついて志麻に頭を下げた。

「今日は危ないところを助けて頂き感謝する」

「いや、余計なことをしてしまった、私が手を出さずともあなた一人で何とかなった筈だ」

志麻は佐伯相手ではつい男言葉になってしまう。

「志麻ちゃん何緊張してるのよ?」

「ちょ、ちょっとお紺さん!」

「そちらは?」

「私の旅の連合いで、お紺さんです」

「これはお初にお目にかかります、佐伯清之進と申します」

佐伯は軽く頭を下げた。

「お紺と申します、志麻ちゃんとは姉妹のような仲ですのよ」おほほほ、とお紺はよそ行きの笑い方をした。

「あっ、あの時のお侍さん!」朱美が声を上げた。

「あれ、そなたは一膳飯屋にいた・・・」

「朱美です」

「朱美ちゃんか・・・なぜこんなところに?」

「お侍さんも探していた井蛙なんとかっていう人、知ってる人がいたから志麻さんに知らせに来たの」

「そうか、志麻さんもあそこで聞いたのか」

「き、貴殿の言い残した特徴を元に似顔を描いて、お客さんや近所の人に聞いてもらっていたのだ」

「へえ、似顔ねぇ?」

「こ、これだ」

志麻は懐から自分の描いた似顔を取り出して佐伯に見せた。

「ほう、特徴をよく捉えている、これなら気づく人も多いだろう」

「貴殿の情報のお蔭だ」

「貴殿はやめてくれ、清之助で良い」

「い、いやそれはちょっと・・・」

「志麻ちゃん、何遠慮してんのよ、あんた命の恩人でしょ?・・・ね、清さん」

「清さんか、いい響きだ」佐伯が嬉しそうな顔をする。

「ほら、志麻ちゃんも呼んでみな」

どうしたんだろう、お紺さん嫌にはしゃいでいる。いや、お紺さんはいつもはしゃいでるけど今日はなんだか少し違うような気がする。

「い、いや、私は佐伯殿と呼ぶ」

「初心だねぇ、志麻ちゃんは・・・清さん、ま、暫くは佐伯殿で勘弁しておくれ」

「お紺さん、面白がってない?」

「さあ、どうだか?」お紺はとぼけて天井を仰いだ。

志麻は仕方なく佐伯の方を向いた。

「そ、それで佐伯殿は何故ここへ来たのだ?それに、どうしてここが分かった?」

「何故ってのはご挨拶だなぁ、昼間のお礼を言うためですよ、そのために足を棒にして歩き回って、やっとこの宿を突き止めたのに」

「あの男達がいるのに危険じゃないか?」

「あれだけ痛めつけられれば今日一日は動けないでしょ、特に志麻さんに肩を打たれた近藤なんかは当分刀は持てない」

「あ、あれはつい力が入って・・・」

「いや、責めてるわけじゃないですよ、お蔭で呑龍斎に先に会う事が出来る」

「清さん、自分の師匠になるかも知れない人を呼び捨てかい?」

「だからですよ、太刀合って師になる価値のある人ならすぐにでも先生と呼びます」

「そう言えば、佐伯殿はあの男達に嘘の情報を伝えたな、あれは何故だ?」

「ああ、もうバレていたんですね。もちろん呑龍斎に先に会って彼を逃す事、そしてあわよくば太刀合いを所望して、場合によっては弟子入りしたいと・・・」

「ならば全然違う場所を教えれば良かったではないか?」

「それじゃ真実味が無いでしょ、嘘をつくにしてもどこかに真実を入れないと見破られてしまう」

「そ、そうか・・・しかし、あの五人は呑龍斎を仇と言っていたが?」

「私にとっても仇には違いありませんが」

「どういうことだ?」

「それはですね、私もあの五人も御前試合で呑龍斎に敗れた剣客の弟子だからですよ」

「やはりそうだったのか」

「あの時の話を聞いていたのなら大体の察しはついていると思うけど、我々は師の仇を討つために派遣された刺客なのです」

「ならば、呑龍斎の弟子になれたとしても、もう元の藩には戻れぬのではないか?」

「ああ、それは心配いりません。もとより後取りの総領息子は刺客には選ばれておりません、我々は部屋住みの次男三男ばかりで編成されたのです。まぁ、多少外聞は悪くなるでしょうが私一人くらいいなくなったところでどうという事は無い、むしろ食い扶持が減って清々するんじゃないでしょうか」

「そのまま脱藩すると?」

「一生冷や飯食いで過ごすよりも、好きな剣術をして生きる方が私は自由でいいと思うのですよ」

「それはそうだが・・・」

「清さん、偉い!男はそうでなきゃいけないよ!」

「お紺さん分かってくれますか!」

「もちろん、私だって狭い世間が嫌でこうやって抜け参りに出て来たんだから」

「お紺さん、それとこれとは話が別・・・」

「いや、そう変わらないよ、人はもっと自由であるべきだ!・・・ってね、一刀斎の受け売りだけど」

「一刀斎?」

「長屋に住んでるぐうたらな剣術使いさ、でも、滅法腕は立つんだよ」

「へぇ、私もそういう暮らしがしたいなぁ」

「だったら江戸においでよ、あそこだったら地方より自由が効くよ」

そう言いながらなぜかお紺はジッと佐伯の目を見た。

「そ、そうですね・・・この件が片付いたら考えてみます」

「そうおしな」

お紺が言った時、朱美がスッと立ち上がった。

「私、おばあちゃんが心配するからそろそろ帰るね」

「朱美ちゃん、わざわざありがとうね。くれぐれもおばあちゃんに宜しく伝えて」

「うん、でも志麻さんもその人に会いに行くんでしょ?」

「ええ、そのつもりよ」

「だったら、絶対に無事に帰って来て、怪我なんかしちゃダメだよ!」

「分かった」

戻ったら必ず店に寄ると約束すると、朱美は『絶対よ!』と念を押して帰って行った。

「志麻ちゃん、あんた惚れられたみたいだね」

「な、何言ってるのお紺さん!」

「あの年頃の娘は、強い同性に憧れるもんさ」

「・・・」

「志麻さん、あなたも呑龍斎と手合わせをするつもりなのですね?」佐伯が訊いた。

「出来れば・・・」

「なら、明日一緒に行きませんか?」

「良いのか一緒に行っても?」

「勿論、あなたも私と同じ思いなら、強い剣客の技は是非見てみたい筈だ」

「かたじけない」

「但し、呑龍斎と太刀合うのは私が先だ」

「分かった」

「私が勝てば貴方に立ち会う機会は無いが?」

「うむ、承知した」

「では、明日迎えに来る」

佐伯の言葉に、志麻は頷きながらも訊いてみた。

「だが、あの五人も行くのではないか、途中までは同じ方向だろう?」

「奴らは必ず明日動く。私は奴らの宿を知っているから、奴らが出て行くのを見届けてここへ迎えに来るとしよう。そうすれば出会う事も無い」

そう言い残して佐伯は部屋を出て行った。


布団を敷いて横になると、お紺が寝返りを打って志麻の方に向き直った。

「志麻ちゃん、あの佐伯清之進という侍は信用出来そうかい?」

「え、どうしてそう思うの?」

「いや、何となくだよ。あっちはあんたが信じるんならそれで構わないけど・・・」話ができすぎていると、お紺は言った。

「私はどう言った形にしろ、呑龍斎の技が見られればそれでいいの」

「分かった、もう何も言わない。だけどちゃんと帰ってくるんだよ、あの娘の為にも」


お紺はそう言って行燈の火を吹き消した。


*******


翌朝、志麻は佐伯がいつ来ても良いように支度を整えて待っていた。

しかし、佐伯は巳の刻(10時頃)になっても姿を現さない。

お紺はイライラと旅籠の前の道と部屋の間を行ったり来たりしている。

「清さん来ないねぇ、あの人今頃はもう呑龍斎とかの所に行ってるんじゃないのかい?」

志麻は畳の上に端座して腕を組んでいる。

「丑の刻(正午)になっても現れなかったら一人で行く」

「やっぱり信用できないやつだったんじゃないかえ?」

「・・・もう少し待ってみましょう」

そろそろ丑の刻だという頃、涼しい顔で佐伯が部屋に入って来た。

「遅いよ清さん!」お紺が文句を言った。

「すみまん、あいつら思っていたより行動が遅くって、たった今宿を出てほうろく地蔵の方へ向かいました」

「あれ?」

志麻は佐伯の姿に違和感を感じた。昨日までの佐伯の姿とどこかが違う。

その原因はすぐに分かった。柄は似ているが佐伯が昨日まで来ていた着物ではなく妙にこざっぱりしている。普通旅に出る時は荷物になるので替の着物は持って出ない。志麻とて一張羅の着た切り雀、たまに宿で時間のある時に埃を叩いたり水に潜らせたりする程度だ。まして仇討ちの旅なら尚更そんな用意はすまい。

「佐伯殿、着物を変えたか?」率直に訊いてみた。

「ああ、これですか」佐伯は袖口を摘んで広げて見せる。「もしかしたら、自分の師になるかもしれない人に会いに行くんです、垢じみた服では失礼かと思って宿場の古着屋で揃えました・・・似合いませんか?」

「いや、そんな事は無い」納得の行く説明ではある。

「良かった、そんな事よりすぐに出発しましょう。奴らが勘づいて戻ってくる前に呑龍斎に会わねばなりません」

「そうだな」志麻は佐伯に対してあくまで男口調を崩さない。

「清さん、志麻ちゃんを頼むよ」お紺が佐伯を見た。「きっと無事に連れて帰って来ておくれ」

佐伯は大仰に笑い声を上げた。

「ははははは!我々は仇討ちに行く訳ではありません、あくまでも井蛙呑龍斎を追手から逃す事と、出来れば一手教授して貰う事が目的です。私はその結果次第では弟子入りを頼むこともありますが、志麻さんに弟子入りの気持ちは無いでしょう?」

「私は何か得るものがあればと思っているだけだが・・・」

「ですから大丈夫ですよ、決して命に関わるような事はありません」

「だと良いけど・・・」

「お紺さん心配しないで、夜までには帰って来るから」

志麻が優しく言うとお紺もやっと納得したように言った。

「うん、分かった、行っておいで」


志麻と佐伯がお紺に見送られて宿を出た頃、陽は頭の真上で橙色に輝いていた。


*******


「ここを右に行くと美濃路、左に行くと佐屋街道です」

ほうろく地蔵の前で佐伯は立ち止まった。

「あの五人は左へ行ったのだな?」

「その筈です、岩塚宿を過ぎればすぐに庄内川だ、今頃は人っ子一人いない山道を登っているでしょう」

「怪しまれはしないか?」

途中までは五人の後を追う事になるが庄内川に橋は無い、甘酒屋のないことに気が付いて奴らが戻ってきたら万場の渡し場で鉢合わせする危険性があった。

「大丈夫です心配はありません」佐伯は妙に自信たっぷりに言った。

「なぜそう言い切れる?」

「だって奴らは本当の場所を知らないんですよ、そこに無ければ宮宿に戻って私を探すしかない。なら、山道を引き返すより美濃地に出て宮宿まで下った方が早い」

「それはそうだが・・・」

「それとも呑龍斎に会うのを諦めますか?」

ここまで来て引き返すと言う選択肢は無い、志麻は佐伯の言に従って左の道を歩き始める。

五人に会う事も無く無事万場宿に着いた。

新川に出る前に佐伯は手前の道を右に折れた。そこは神社の境内に続く石段だった。

「ここは神社ではないか、こんな所に道があるのか?」志麻が訊いた。

「この神社の裏手から清須宿まで林道が続いているのです、知る人ぞ知ると言う道ですね」

「確かに旅人が通る道ではないようだな」

地元の人かこの土地をよく知った行商人しか通らないだろう。老人一人の活計たつきを立てるためにはそれでも十分と言う事か。

石段を上り鳥居を潜って拝殿の横を抜け神殿の裏手に回ると、そこから山に向かって細い道が続いている。志麻と佐伯は左側に新川の流れを見ながら杉木立の中を上へ上へと登って行った。

新川が遥か下に見えるようになった頃、木下闇の中に突如峠の茶屋が現れた。否、小屋の前に床机が二つばかり置かれているからそれと分かるだけで、幟も看板も出ていない。ただ板壁に『甘酒』と書いた紙が貼ってあるだけだ。

客の姿は何処にもなかったが、小屋の跳ね上げ窓から微かに煙が漏れている事で中に人がいる事が知れる。

「どうやら着いたようですね」佐伯が言った。「私が行きます、志麻さんはここで待っていて下さい」

佐伯は一人で小屋に近付いて行った。

「ごめん、どなたか居られぬか?」

コトリ、と小屋の中で音がした。

「はい、いらっしゃい・・・」

小屋の中から志麻の似顔絵そっくりの老人が現れた。自分でもびっくりするほど似ている。

どう見ても百姓身分の好々爺だ。

「おや、お侍のお客様とは珍しい、今日は甘酒をご所望か?」

「いや、私は・・・」

「あれ?そちらの方は何処かで見覚えがある・・・」

老人が佐伯の肩越しに志麻を見た。

「確か宮宿の一膳飯屋の前で、旅の流れ者を散々っぱら投げ飛ばしておったお方」

「や、あれを見ておられたのですか・・・お恥ずかしい」

「いや、たまたま所要で出た折に良いものを見させてもらいました、これも天照の神のお導きと喜んでおったのでございますよ」

「ご老人、我らは甘酒を飲みに参ったのではござらぬ、あなたに確かめたき事があって参ったのだ」

佐伯が話を戻そうと老人に言った。

「まあ、そう慌てなさいますな、今日は朝から客も無く、せっかく作った甘酒が無駄になりそうでございます。いくら滋養に良いと言われてもこの爺い一人ではとても飲みきれない。お代は要りません、良かったらいかがです?」

「いや、しかし・・・」

「佐伯殿、せっかくだからご相伴いたそうではないか。話は甘酒を頂きながらゆっくりと致せば良い」

「う、うむ、志麻さんがそう言われるのなら・・・」

「それは有難い、では早速用意をしてまいりますのでそこの床机にかけてお待ち下さい」

老人は丁寧にお辞儀をしてから小屋の中に入って行った。志麻と佐伯は一つの床机に腰掛けた。

「佐伯殿、私にはあのご老人が井蛙呑龍斎とは思えぬのだが?」

「志麻さんもか、私も自信が無くなって来たところだ。訊いた人相風体には一致しているのだが所作動作がどうしても武人のものとは思えぬ。たとえどんなに隠そうとしても、何処かに片鱗が垣間見える筈だ」

「もし違ったら、とんだ骨折り損だが・・・」

「いや、まだ別人だと決まった訳ではない、我が師を倒した呑龍斎ならあるいは・・・」

一切の片鱗を隠しおおせると言うのか・・・

そこへ件の老人が盆に湯呑みを三つのせて小屋から出て来た。志麻と佐伯の間に盆を置くと、自分は湯呑みを一つ取ってもう一つの床机に腰を下ろす。

「さあ、熱いうちにどうぞ、冷めると味が落ちますから」

「頂きます・・・」

志麻は湯呑みを手に取ってふぅふぅと息を吹きかけ、少し冷めたところをずずっと啜った。

「美味しい!」

「そうですか、その言葉がこの爺いにとっては何よりのご馳走でございますわい」

そう言って老人も甘酒を啜った。

「ささ、あなた様も飲まれませ」老人が佐伯に甘酒を勧める。

「いや、その前に聞きたい事がある」

「なんでございましょう?」

「あなたの名前ですよ」

「それを聞いてなんとなさる?」

「私はある剣客を探している、もしあなたがその剣客なら私は二つの目的を果たさねばならない」

「一つは?」

「あなたと太刀合うこと」

「もう一つは?」

「あなたの首を国元に持ち帰ること!」

「佐伯殿、それでは話が違う!貴殿は呑龍斎を逃しその弟子になる事を望んでいた筈!」

「ふふ、やはりな・・・」老人が北叟笑む。

「やはり、とは?」

「貴殿が坂を登ってくるのを小屋の窓から見ておった。その足運びを見てこれは追手だとピンと来た、貴殿の探しているのは井蛙呑龍斎であろう?」

「やはりお主が!」

佐伯は床机を蹴って立ち上がり刀を抜いた。

「いかにも儂が呑龍斎だが、貴殿既に人を斬って来ておろう?」

「なにっ!」

「臭うのだよその刀から・・・血の匂いが」

「うぬっ!」

「佐伯殿どういう事だ!」志麻が立ち上がって佐伯の前に立った。

「志麻さんあんたも鈍いな、こんな所までノコノコ着いて来るとは」

「なに?」

「俺だってあんたがあそこに現れなければこんな小芝居はしなくて済んだのだよ」

「小芝居?」

「俺は今朝五人の仲間を庄内川の上流で斬って来た。それから血糊を洗い流し着物を替え急いであんたの泊まっている宿に引き返した」

「どうしてそんなことをする?」

「どうして?決まっている、師の仇、井蛙呑龍斎討伐の手柄を独り占めにするためさ。その為には事情を知っているお前を生かしてはおけんのだ」

「何故だ、脱藩して自由になりたいと言っていたじゃないか?」

「ふん、脱藩なんてする気は毛頭無い。だが、部屋住の惨めさにも耐え難い。ならば、師の仇を討つことで道場を我がものにしようと考えたのだ、俺の生きる道が欲しかったのだよ」

「そのためにあの五人を斬ったのか?」

「そう、そして呑龍斎を斬った後お前を始末すれば全て丸く納まる、呑龍斎があの五人とお前を斬った事にすれば良いのだからな」

「卑劣な・・・」

「なんとでも言え、お前に部屋住の気持ちなど分かってたまるか!」

老人が志麻の肩に手を置いた。

「娘御、志麻さんとか言ったかな?」

「はい」

「少し下がっていなされ、こんな狂犬に噛みつかれては元も子も無い」

「しかし・・・」呑龍斎は腰に一物も帯びていないのだ。

「なぁに、こんな輩にはこの薪ざっぽうで十分」

そう言って小屋の入り口に積んであった薪の束から一本を抜き取った。

「え?」

あまりにも無謀だった。佐伯は、その言を信じれば五人の剣士を斬った手練れ、一膳飯屋の前で志麻が相手をした流れ者とは訳が違うのだ。それを薪一本で相手するとは・・・

「ま、見ておるが良い」

老人、否、呑龍斎が志麻の前に出た。

「さあ、どこからでも参るが良かろう」

そう言って構えた途端、志麻は息を呑んだ。小柄な呑龍斎の躰がほんの一瞬、若くて逞しい佐伯の躰よりも大きく見えたのだ。

佐伯が一歩後退った。

「こ、これは・・・」

佐伯も何か感じたらしく無闇に打って出ることは出来ずにいる。

「どうした、その方の師はこの程度の事で怯みはしなかったぞ」

「くそっ!」

「ほれ」

呑龍斎が薪を握った手をスッと引き上げた。

「隙あり!」

佐伯が踏み込んだ途端呑龍斎の躰がその場から消えた。

次の瞬間薪ざっぽうで肩を打たれた佐伯が地面に転がった。

「うう・・・」佐伯が悔しそうに呑龍斎を見上げた。

「得心がいかぬか?ならば教えてやろう。其方は今、儂が発した『気』に怯え、儂の言葉に『怒』り、儂の動きを『隙』と見、儂の躰を『実』と観て打ち込んで来た。これを三方を塞ぎ一方を開けると言う。

「なに?」

「其方は外からの刺激に一々反応し儂が塞いだ三方に気付かず、わざと明けた『虚』をそこに儂が居ると観て打ち込んだのじゃ。それでは儂に当たるわけがなかろう」

「何を訳の分からぬ事を!」

「敵の動きを見てその色に従う者は、結局は後手を追うという事じゃ」

「ぬかせ!」

佐伯は素早く立ち上がって剣を構えると、今度は慎重に呑龍斎の周りを回り始めた。

「そうやって切先の届く位置を保っていれば、自分が優位に立てると思って居るのかな?」

「はぁ?当然だろう長い物の方が有利に決まっている」

「剣の間合い薪ざっぽうの間合いというものがある訳では無い。両者の間にあるものは常に一定の距離とその中間のみ」

「間合いの取り合いなど無駄と申すか?」

「貴殿のように勝つ為に汲々として知恵を働かせる事は、墨をもって雲に字を書くと同じ事」

「詭弁を弄すな!」

「敵も無く我も無く我の持ちたる太刀も無く、ただ、心と体をピタリと一致させ、ただ独り行けば勝とうと思わずとも勝は我が手中に有り」

「ほざくな!」

佐伯が喚きながら剣を振り上げ真っ向から斬り掛かった。

カッ!と刃が薪に食い込んだ時、またしても呑龍斎の姿が目の前から消えた。

佐伯は天と地の間を浮遊する羽毛の如く宙を舞って地に落ちた。

「ううううう・・・」

身についた受け身が致命傷を救ったが、それでもすぐには起き上がる事が出来ず、佐伯は蹲ったまま呻いている。

「流石に受け身は心得ておるな」呑龍斎が言った。

「くっ、くくく・・・」佐伯の肩が小刻みに震えている。

「何を嗤うておる?」

「これが嗤わずにおられようか」

「気でも触れたか?」

「呑龍斎、お前が剣の達人である事は認めよう、そしてその技量の何者をも及ばぬ事も・・・しかし、これはどうだ?」

佐伯は蹲った姿勢で懐から銃を取り出した。

「これはエゲレス製の五連発、いかに武の精髄を極めようと此れには敵うまい。どんな修行も文明の力の前では無用の長物と化すのだ!」

「愚かな・・・」

「どっちが愚かだ、そんなものに一生を捧げる方がよっぽど愚かじゃ無いのか?」

「佐伯殿!剣を愚弄するのか!」志麻が鬼神丸の柄に手を掛けた。

「動くな!動けばお前を先に撃つ!」

「志麻殿、刀から手を離すのじゃ」

「呑龍斎・・・先生」

「その男の言う事にも一理ある」

「なんと仰います?」

「儂は一生を剣の修行に捧げた、そして今その事を後悔しておる」

「・・・」

「武術の修行をする為に人生があるのでは無い、楽しむ為にあるのじゃよ。そのために起こり得る暴力的な危難を回避する手段として武術を修行するのじゃ」

「し、しかしそれは、その人が良いと思うのならそれで良いのではありませんか?」

「まぁ、そうであろうの。だが儂は後悔した、じゃによって仕官の口を蹴って甘酒屋の親父として残りの人生を楽しもうと決めたのじゃよ」

「そ、そんな・・・」

「じゃがその望みもここで終わりのようじゃ。志摩殿、儂がその男を制す故、その間に逃れられよ」

「で、出来ません!」

「志麻殿の宮宿での体捌き見事であった、屹度きっと其方は良い剣士になられる・・・精進なされ」

佐伯の銃口に向かって呑龍斎が静かに歩を進めようとした時、杉林の暗がりから突如人影が飛び出して来た。

「佐伯ぃぃぃ!」

血だらけの男が刃を振り上げ佐伯に向かって突進した。

「酒井、生きていたのか!」

「同志の仇、覚悟!」

乾いた銃声が杉の木立にこだました。

酒井は一瞬のけぞって踏みとどまり、満身の力を込めて足を一歩踏み出した。

二発目の銃声が轟いた時、呑龍斎が動いた。

爪先で銃を蹴り上げると素早く佐伯の後ろへ回りあっという間に絞め落としてしまった。

「おい、大丈夫か!」志麻が酒井を抱き起こす。胸に銃弾が二発めり込んでいた。

「そ、そいつを、や、役人に・・・」

「分かった」

「お、俺は、佐伯に斬られて川に落ち運よく対岸に流れ着いた。そ、そこでお前たちが船から降りるのを見てここまでつけてきたのだ・・・」

「分かったから喋るな!」

「ふふふ、これで思い残す事は無い・・・」

「しっかりしろ!しっかり・・・」既に酒井は事切れていた。

「志摩殿、こやつを役人に引き渡す。済まぬが宮宿まで行って呼んで来てはくれぬか?」

「分かりました呑龍斎先生」

「その呼び方はよしてくれ、今は甘酒屋の親父吉兵衛だ」

「は、はい、吉兵衛殿・・・それでは行ってきます!」

志麻は杉林の中に続く坂道を全速力で駆け降りて行った。


その後志麻が役人を連れて戻った時には、呑龍斎の姿は忽然と消えていた。

杉の巨木に縛り付けられた佐伯清之進の額には『志麻殿精進なされよ』との走り書きが貼り付けてあった。


*******


・・・今回は私の出る幕は無かったわね

志麻の胸の中で鬼神丸が呟いた。

志麻は今、亀屋の小上がりに腰掛けて鬼神丸を抱いて物思いに耽っている。

「志麻ちゃんどうしたの、ボ〜としちゃって?」隣に座っているお紺が訊いた。

「あ、ああ・・・ごめんねお紺さん、なんか今回の件について考えちゃってた」

「そうね、あの清さんがそんなことをする男だったとは想像もつかなかったものね」

「それもあるけど、呑龍斎先生のあの言葉・・・」

「なぁに?」

「修行のために人生があるのでは無い・・・」

「ああ、それ分かる。お寺のお坊さんなんか一生あのまんまじゃつまんないでしょ?」

「だから生臭坊主が多いのかな?」

「私の知ってるお坊さんなんて殆どがそうだもの」

「でも、ちゃんとやってるお坊さんは凄いと思うし・・・」

「志麻ちゃんはどうなのよ、一生剣の修行に捧げたい?」

「今まではそれしか考えられなかったけど・・・分からなくなっちゃった」

「だったら分かるまで今のままでいいんじゃない?結局人は自分のなりたい者にしかなれないんだもの」

「そうね、自然に答えが出るまで保留にしておこうか」

「そうそう、それがいい。下手な考え休むに似たり寄ったりって言うじゃない」

「あはは、何それ」

「さあさあ二人とも、そんな辛気臭い顔してないで、これでも呑んで元気出して」朱美が盆に銚子と肴を乗せてやって来た。

「ありがとう朱美ちゃん、今回は本当にお世話になったわ」

「ううん、志麻さんが無事戻って来てくれてホッとした」

「朱美はずっとソワソワしてたんだよ、私の情報の所為で志麻さんが怪我したらどうしよう、って」お亀婆さんが盃を持ってやって来た。「さあ、盃を取って。お二人の船旅の無事を祈ろうじゃないか」

志麻とお紺は午後の最終便で七里の渡しから宮宿を発つ。

「お亀さん、お達者で」

「わたしゃ百まで生きるよ、なんたって人生楽しんでるから!」


それから女四人の話が弾み、危うく船に乗り遅れそうになった事は見なかったことにしよう・・・と、鬼神丸は思った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 武術家の発する「気」が、相手に錯覚を起こさせるというのは今も昔も変わらないみたいですよね。 武の四要素に一眼二足三胆四力がありますが、自分は個人的に、「一気」です(笑) 気をもって、戦わ…
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