あとがき
詩人の土井晩翠に敬意を表し、私も五音七音に縛って書いてみました。
原稿用紙からタイプライターへ打ち込んでいるときに思ったのですが、想像したものを書くのではなくて、繋がる言葉を書いて行ったという書き方なので、所々何が言いたいのか分からないと、書いた僕自身でも感じました。
題材を「天国の風景」としてみましたが、私は天国に行ったことは無いと思うので、なかなか書き進められませんでした。天国というのは斯くも書きにくい場所なのかと思いました。たぶん、逆の「地獄の風景」なら、もっと書きやすいのでしょう。ダンテの『神曲 地獄篇』のように。
人は書きづらい題材を書かなくてはならないときには、一体どうするものなのでしょうか。私は気になります。
ところで、E・E・カミングスは『詩人の忠告』で「一編の詩さえ書けないというのなら、あなたは何かを爆破する方法を学ぶと言った何か簡単なことから始めるべきである」というようなことを書いていた。この言葉は僕なりに言えばこうなる。「あなたが感じたことを感じるままに生きて、自分の言葉によって感じるままに表現しようとしても、詩の一行さえも書けないのならば、あなたは『地球を緑の星に回帰させる方法』を学ぶといった何か簡単なことから始めるべきである」と。
実際、それは簡単なのである。読み手は「協生農法」というものをご存じだろうか。ソニーCSLの船橋真俊さんが研究している農法である。この農法の理論的なことは、ブログ「野人エッセイす」の大塚隆さんが打ち立てたものである。協生農法とは一口に言えば、二百種から三百種もの植物作物を密生混生させて収穫するという農法である。慣行農法の単一作物を育てるというモノカルチャー農法の逆方向を行くものである。この向きはパーマカルチャーと似ていると思う。しかし現状、私はパーマカルチャーと協生農法の明確な違いというのを認識していない。恐らく、理論の核が違うのだろう。現在(二〇二二年二月末日)では、協生農法の書籍は一冊あるかあないかというもので、現段階でも研究途上であることが分かる。ちなみに、協生農法のマニュアルや学習キットはPDF形式でネットに無料公開されている。シネコカルチャーや協生農法マニュアルで検索されるとよいだろう。しかしこれらを見て思うのは、個人で始めるのは大変そうだということである。十人単位で協力して農作業しなくては、プロ農家として協生農法で食って生きていくのは難しそうに見える。しかし、船橋さんのブルキナファソでの実証実験では成功を修めている。サハラ砂漠の国で成功したのだ。日本でできない理由はない。実際、協生農園は実在する。大塚隆さんの畑に代表されるものである。
話は逸れた。農法が地球を破壊してきたが、同じ農法で地球を救うこともできるのである。その後は思想面での救済が必要となる。しかしこれも目星は付いている。文化勲章を受章した数学博士の「岡潔」の晩年中期の思想(一九六九~一九七四年)に現われている。それによれば、地球を救えるのは日本民族であると。なぜなら、本当の「こころ」というものを識っているのは純粋な日本人だけだからと。岡はそれを「真情」と呼んだ。知情意とあるが、西洋人 (欧米人)は意が大切だと云い、東洋人は知が大切だと云うが、情が大切だと言うのは日本人だけなのである。だから、情が、情緒が自分の心の中心なのであると分ったら、隣の人にもそう伝えてもらいたいのである。私達は地球を救うために産まれてきたのだろう。憎いことに、岡は私達が悩まずに済むように、よいと思える思想を遺している。
岡のことがもっと知りたかったら、まずは『人間の建設』という小林秀雄との対談本を読んで見て、それからネットの「岡潔思想研究会」の講演録を紐解くのがよいだろうと思う。
岡は「歌と俳句で辿る日本歴史」という講演もしていた。小説家が読めば、どういう反応をするのであろうか。芭蕉や万葉を読んだことのある方は、ぜひご一読あれ。ネットで無料公開されている。必要なのは自由な時間だけである。
遺された時間。地球の滅亡、地球上から人が居なくなるという惨事は回避できるのであろうか。
とにも角にも、私達は未来の子供たちのためにも、残された時間を無限にするために、働かなくてはならないと感じる今日日である。
男なら、星を救ってナンボでしょう。
岡は言った。「懐かしさと喜びの文学」が必要になると。芥川なんかの時代の小説を読んで見ると「悲しみの文学」であると。現代の私達は喜びの絶えない文学を打ち立てられないかともがくべきではないだろうか。そう思って自分を奮い立たせるのであるが、怠惰な自分は毎日原稿用紙に向かうということができないのであった。私の塾生時代の先生は言った。「自分との約束を守れない奴は幸せにはなれない」と。自分との約束をするとは、自己目標を掲げるということである。目標を達成できているだろうか。否。と、こうやって自分を責めるだけであって、それに一体なんのありがたみがあろうか。
愚痴も言わず、自慢もせず、ただ情熱でもって直観をコンパスにして、書き続ける人生を歩みたい。そう思う今日この頃である。
この詩集を最後にして、ペンネームを変えて新しく活動したいと思っている。詳しく知りたい方は私のブログでも参照してもらいたい。なろうのプロフィールから見れると思う。
二〇二二・二・二八 記す
<献辞>
未来のこどもたちへ。