カンタ―ビレ
【エピソードタイトル、カンタ―ビレ→カンタービレ】 次の日。
雲一つない、晴天だった。
親父が家を出ていくのを見計らい、借りていた洋服を洗濯する。
風がよく吹いたため、昼頃には乾いていた。
アイロンをかけてみても、借りた時のようにはならず、肩を落とす。
家中探してようやく見つけた紙袋に、借り物の洋服一式を入れる。
そして、家を出た。
白い壁壁を通り過ぎていき、遠くに見える大きな屋敷を目指し、坂を上る。
昼間に見ても、ミネルヴァの家は豪邸だ。
庭にいた彼女の母親に、お礼とともに洋服を返す。
茶封筒も、返そうとしたが断られた。
敷地を出ようとすると、腕をつかまれる。
振り返ると、ミネルヴァがそこにいた。
彼女は、あたりを見渡している。
すると俺を何処かへと連れて行こうと、腕を引っ張った。
行きついた場所は、あの海辺のカフェだ。
定休日のため店員はいない。
ミネルヴァは立ち止まり、俺を見る。
「昨日は、……ごめんなさい」
今にも泣きそうな顔で言われた。
「人魚、だったんだ。ほんとに」
「えぇ……そうよ。それも人魚。こんなことを言うのは、悪いのかもしれない。でも、お願い誰にもいわないで。
もし、島の人たちに正体がばれたら私達」
ぽろりと涙が彼女の頬を伝う。
昨日の会話を、思い出す。
正体がもし知られたら、逃げなくてはいけないのであろう。
海から陸へ来ている、ということは何か事情があるのだと思った。
「誰にもいわない。そもそも俺が島の人に、君の正体を伝えても信じてもらえない」
「どうして」
「君、気づいてるだろう。俺は、耳が聞こえない。耳が聞こえないから正しい発音、わからない。だから島の人からすると、俺はきっと、怪物がしゃべっているように見えるんだ。
だから君を人魚だ、と島の人に言っても意味はないだ。だって君のほうが俺より、人間らしいから」
ミネルヴァは、黙っていた。
しかしその視線は理不尽に抗議している。
彼女は下唇を噛んでいた。
「ミネルヴァの正体は誰にも言わない。いや言えないんだ。だから、心配しないで」
「私、本当に酷いことを、あなたにしようとしてたのよ! 謝罪しても、許してもらえないようなことを。
なのに、どうして、ネモ。あなたは怒らないの……」
俺は何も言えなかった。
言葉が思いつかなかったのだ。
するとふと、疑問が浮かぶ。
「海に落とされたときは怖かった。だけど誰かが君を呼ぶ声が聞こえたんだ。あれは一体何だったのだろうか」
「……きっとお父様が歌ったのよ」
歌った?、どういうことだろう。
「私たちセイレ-ンは、人を惑わす歌が出せるの。お父様が使ったのは、セイレ-ンに対する緊急警告音のようなものよ。
でも、耳が聞こえないあなたには聞こえないはずよ。もしかして、あの時おでこが触れていたからかも?
きっと骨伝導? というもので私の振動があなたに伝わったのかしら?
————! ネモ。もしかしたら、あなたに音を届けてあげられるかも」
ミネルヴァの顔が近くなり、おでこがくっつく。
少し、いやだいぶ恥ずかしい。
彼女は目をつぶり、深呼吸をする。
「歌が下手でも、笑わないでね」
そして彼女の歌が始まる——。
そう、イメージは宙を舞う蝶。
気づけばその蝶は、光点となり眩い光を放っている。
まるで星空のように。
だけど、熱に包まれたように温かい。
熱源を知ろうとするとまるで感電したような感覚がした。
体が痺れる訳ではなく、骨そのものが感電したような衝撃。
心に穴が空いたように、苦しくなる。
そして、体が重くなり、ゆっくりと落ちていく様な浮遊感。
————そうか、これが音なのか。
ミネルヴァの歌が終わる。
その時、初めて静寂を知った。
あまりにもそれは寂しく、孤独なものだということも。
「届いたかしら、……——ってネモ、泣いてる!? 私何か失敗したのかしら」
泣いてる? 誰が。
指で目元を触ると、濡れていた。
雨が降っているかのように、頬に水が落ちていく。
ミネルヴァが、慌てふためいている。
その姿がなんだか愛らしく、笑みがこぼれた。
俺は泣き笑いながら、両手をたたく。
「すばらしい歌だったよ。
ミネルヴァ。——ありがとう」
彼女はうれしそうな、満足げな表情をしていた。
なのにミネルヴァまた泣いてる。
ミネルヴァは泣き虫だな。
でもそれを言ってしまうと、きっと彼女は拗ねて口をきいてくれなさそうだ。