不協和音
次の日もミネルヴァは表れた。
左手に杖をつきながら。
俺の視線に、気が付いたのか彼女はいう。
「これ、お父様が少し早いプレゼントに、ってくれたの。私、左足が不自由だから。
ちなみにこの杖、持ち手に彫刻が施されてるのよ。ほら」
たしかにその杖には、フクロウの彫刻がされていた。
浅学な俺でも、杖を作ったのが一流の職人だと、わかる程の品である。
ミネルヴァはまた俺の向かいに座り、海を見ていた。
遠くでカモメが数羽、飛んでいる。
俺は視線を本にもどす。
「そのお話最後、人魚、泡になっちゃうんだよね」
俺は彼女を睨む。
結末は始めから知っていた。だが、こうもまじまじと言われると興ざめである。
ミネルヴァは真新しい杖を触りながらこう続けた。
「みんなこの話を恋物語なんていうけれど、私は違うと思うの。きっと愛物語なのよ。
だって恋は、どこまで行っても利己的だもの。
好きになってもらいたい。
一緒に、映画に行きたい。
私が隣を、歩いていたい。
ほら、全部じぶんの欲望を相手に、ぶつけてるだけじゃない。ただその人の一面だけを好きになって、本質を見ようとしてないのよ。
見ているのは、都合の良い一面だけ。
でもね、愛っていうものは違うと思うの。いつだって利他的。
幸せになってもらいたい。
映画を見せてあげたい。
愛する人と共に、歩んでほしい。
いつだって自分は後回し。その人の嫌なところも、含めて好きになっているの。悲しいことに、自分のことが見えていない。考えているのは、愛する人の幸せだけ。
だから人魚の主人公は初めは恋をして、最後は愛してしまった。
不思議ね。いつだって恋物語はハッピーエンドが多いのに、愛物語はいつだって幸せだとは限らないなんて」
俺にとってその話は哲学的で理解に苦しんだ。
本当にこの目の前の彼女は、同い年ぐらいなのかと疑問がわいた。実は見た目だけ若く、実際は年を取っているのでは。
まるで魔女のような。
「君は、まるで人魚だ」
ミネルヴァの表情が凍った。
元々血の気のない顔が、人形のように。
突然、彼女は前のめりになりながら、俺の目を見た。
鼻と鼻が、くっつきそうなほど近い。
「……なんで」と彼女は、獣じみた眼でこちらをうかがう。
返答次第では、食い殺されそうな感覚に襲われる。
「……あまりにも、考え方が大人びていたから、同い年に見えない。だから見た目が若いだけで、実は違うんじゃないかと思った」
ミネルヴァは黙っている。
顔から表情が読み取れない。
どうして彼女は、あの様な眼をしていたのだろうか。
一言「違う」といえば終わる話題にこれほど過敏になるなんて。
人魚に例えられたのが気に障ったのか。
それとも、————。
「君は、もしかしてに」
刹那、俺はミネルヴァに突き落とされた。
いや、突き落とすというより、投げ飛ばされたというべきか。
体が宙を舞い海へと落ちてゆく。
無数の泡と、輝く波紋の輪が遠くに見えた。
浮上しようと、手足を動かす。しかし水面に近づくどころか、さらに底へと沈んでいく。
すると視界の端で、何かが光った。
それは、大きな魚の尾びれだ。キラキラと、鱗が光を反射している。
一見、美しいがこの島に、これほど大きな魚はいない。
すると、その尾びれの持ち主が、ゆっくりと近づいてきた。
青白い魚の姿をしているのに、人の形。
———人魚だ。
人魚の顔は、先程まで会話していた、ミネルヴァに似ていた。
人魚はいう。
「ごめんなさい」と、泡のような声で。
彼女の手が、首に触れる。
海の底へ、深海へと体が沈んでいく。
意識が遠のき、目の前が霞む。
目が熱を帯びている。
涙は海水に消えていく。
俺も彼女も泣いていた。
どうして、————。
その言葉は泡のように消えてゆく。
涙が止まらない。
ミネルヴァという少女に、裏切られたからか。それとも、死んでしまうことへの恐怖か。
ぼんやりとする頭で俺はこんな事を考えてしまった。
————あぁ、こんなにも海は美しいのに、死ぬときは苦しいんだな。