ロングジャンパー
陸上競技のファンであり続けて約60年、記憶に残っている選手は数多くいるが、その選手のために6年間祈り続け、その記録達成を我が事のように喜んだアスリートはたった一人だ。
1970年6月7日、小田原市営城山競技場で行われた第10回実業団-学生対抗陸上競技会。
この日、男子走り幅跳びで日本人がついに8メートルの壁を超えた。
戦前からただ1つ残されていた、1932年ロサンゼルスオリンピック三段跳びの金メダリストである南部忠平の持つ昭和6年当時の世界記録7メートル98が、39年ぶりに3センチ更新された日だった。
当時、私は受験した大学に落ちて浪人中だった。
中途半端に終わってしまった高校の陸上生活の反省から、大学に入ったらもう一度陸上部に入って自分の可能性を試したいと思っていた。
スポーツで汗を流すこともせず、受験勉強だけに明け暮れていた当時の私にとって、ロングジャンパー山田宏臣は憧れの人だった。
彼は当時の陸上界にあっては、いや種目の専門化がすすんだ現在からすればなおさら、随分と毛色の変わった選手だった。走り幅跳びが専門でありながら、100メートル、110メートルハードル、はては昭和41年のバンコクアジア大会では10種競技にまで出場して、砲丸を投げたり、1500メートルを走るなどという破天荒な事までした。
走って投げて跳んでという陸上競技そのものが好きでたまらない陸上少年が、そのまま大人になったような選手だった。
順天堂大学時代から宴会部長といわれ、弁が立ち、歌もうまく、山田の行くところ笑いがたえなかったそうな。筆も立ち、陸上の専門誌に「宏臣の言いたい放題」という抱腹絶倒のコラムまで連載していた。
広島で毎年ゴールデンウイークの時期に行われる織田陸上で、私は一度だけ山田本人を見た事がある。
彼がスタジアムに姿をあらわした瞬間、競技場全体の雰囲気がパッと明るくなったような気がした。
走り幅跳びの競技が始まる前、選手紹介の場内放送に促されて山田はスタンドに手を振り、更に「8メートルジャンプを期待します」のアナウンスに、うんうんとうなずいて見せたのが印象的だった。今日こそ山田が8メートルジャンプを見せてくれるのではないか、今日こそ歴史的瞬間の目撃者になれるのではないか、そんなワクワクするような期待が競技場全体を支配していた。
しかし1968年のメキシコオリンピックが近づく頃から、順天堂大学の後輩の阿部直樹と小倉新司が頭角をあらわし、山田が後輩の二人に敗れる試合が珍しくなくなった。
私は8メートルを最初に飛ぶのは絶対に山田でなければならないと思っていたので、陸上競技のテレビ中継で阿部と小倉がジャンプをする度に、二人には悪いが山田の目の前で彼らが先に8メートルを跳んでしまうのではないかとひやひやしたものだ。そのような事が起これば、8メートルの向こう側に初めて足跡を残すのは自分だと自他共に認め、ひたすら努力を重ねてきた山田にとってあまりにも残酷すぎる。
山田の練習量の多さは当時の常識はずれで、中でも京都知恩院での石段のぼりの特訓は有名だった。硬い石段を使ってのトレーニングなどすればロングジャンパーの命であるばねを失ってしまうという批判がついてまわったが、日本人として初めて走高跳の2メートルジャンパーであり、南部と同時期のハイジャンプの名選手だったコーチの朝隅善郎と山田はこのトレーニングにかけた。
神社におまいりするたびに、山田が験を担いで賽銭は80円か800円に決めているという事を例のコラムで知って、私も80円の賽銭を投げて山田の8メートルジャンプを祈ったものだ。赤の他人のために私があのようにして願をかけたことは他にない。
期待されたメキシコオリンピックでは7メートル93の自己新を記録したものの10位に終わった彼に、「もはや阿部と小倉の時代だ」、「あの石段を使ったアブノーマルな練習方法が間違っているのだ」と言う声が聞こえなかったはずはない。
その頃だろうか、陰日なたなく山田を励まし続け、既に60歳の半ばを超えていた日本記録保持者の南部忠平は、山田に電話でこう言ったそうな。
「なあ、山田君。朝隈を泣かせてやれよ」
そしてあの昭和45年6月7日、最後の試技となる6回目の大ジャンプ。
見守る競技役員の間から「やった」と声があがり、スタンドがどよめいた。
計測が慎重に繰り返されている間、山田は一人フィールドを歩き回って手を合わせて祈っていた。
競技後、インタビューに答えて28歳の山田は言った。
「…本当なら、死んでもいいと思った」。
助走路に立った彼は草原の風に立つライオンを思わせた。
両手を軽く広げて風向きをよむしぐさ、腿を高く上げたスピード感あふれる助走、ダイナミックなシザーズジャンプ、どれをとっても彼は美しかった。
8メートルの壁突破の夢を1964年の東京オリンピックから数えて6年間、山田は追い続けた。山田のジャンプに一喜一憂しながら、多くの陸上ファンも、そして私もその瞬間を「今日こそは」と6年間待ち続けた。
競技を引退した山田はその後ホテルマンとして疾駆し続けたが、1981年10月21日、39歳でいかにも若くして亡くなってしまった。
市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」の中では永遠に、若き山田宏臣は助走路をさっそうと疾駆している。
木枯らしや寺の階段駆け上がり木立の中に消えていく彼




