見ーつけた
俺だけが悪かったわけじゃないと思う。子供だったら誰でもそうしたと思うし、実際あの場所にいた全員がそうしていた。
俺が小学生の頃に転校してきた松屋間という男。小太りで、内気そうで、鼻の横に大きなホクロがあって、「いじりがいがありそうだな」と思ったことを覚えている。
かといって、別にいじめていたわけじゃない。むしろ積極的に遊びに誘ってやってたし、あの日もそうだった。
川上という友達の家の裏に、山へと続く道があった。そこで俺たちの仲間はいつも遊んでいて、その日は松屋間も呼んでかくれんぼをすることになった。
で、松屋間が鬼になった時。ほんの悪戯心で、全員こっそり帰ってやったのだ。
本当に、ただの子供の出来心だった。みんなその時面白ければ良くて、後のことなんて何も考えてなかった。もうすぐ陽が暮れる時間だったりとか、あの日の山は前日に雨が降って斜面が滑りやすくなっていたとか。
松屋間は、帰ってこなかった。
すぐに捜索願いが出されたらしく、次の日の朝礼の時間に先生が松屋間について聞いてきた。俺たちは何も言わなかった。何故かは分からない。遊んでいただけで、別に悪いことをしたわけじゃなかったからというのが大きかったんじゃないかと思う。
松屋間は、見つからなかった。
一度、母親が学校に乗り込んできたことがある。髪の毛を振り乱し、目を血走らせて。「あの子をいじめていたんだろう!」と唾を散らしながら叫んでいた。
それでも俺たちは、何も知らないと言った。他の人と同じように松屋間の失踪を怖がり、不安がり、怯えてみせた。
俺たちは、二度と山に近づこうとしなかった。別の遊び場を見つけ、歳を重ねるに従って新しい娯楽も覚えて、住む場所も変わって。
そして、俺は大人になった。
差した傘に、雨粒が落ちては跳ね返る。俺は今、鈍色の空の下会社へと向かって早足で歩いていた。
人権を踏み躙られるような就職活動も終えて、何とか社会に身を滑り込ませた現在。子供の頃の記憶なんか、忙殺される日々にすっかり埋もれていたというのに。
何故、急に松屋間のことなんか思い出してしまったのだろう。
「……」
けれど、通勤の忙しさにすぐに頭から追い出されてしまう。腕時計を見ると、始業時刻まであと十五分ほどだった。
足を早める。遅刻はしないが、これ以上おろしたてのスーツが雨に濡れるのは避けたかった。
だが、とあるビルの角を曲がろうとした時である。
「うわっ!?」
突然、何者かに後ろから肩を掴まれた。気を引くような優しいものではない。もっと強引で、まるで捕食者が獲物を捕らえた時のような……。
鼻をつく匂いに咳き込む。振り返ると、真っ黒なレインコートを着た男が俺の顔を凝視していた。
小柄な男は、一見浮浪者のように見えた。髭は伸び放題で、嫌な匂いを撒き散らして。だけど異様だったのは、開けた口から折れた歯が覗き、そこから血を流していたことだった。
俺は声を上げて男を振りほどこうとした。だがその前に、男はにんまりと唇を歪めて言ったのである。
「見ーつけた」
――男の鼻の横には、見覚えのある大きなホクロがあった。
その瞬間である。俺の真後ろから、激しい衝突音と肉の弾ける音がしたのだ。周りの人から悲鳴が上がる。俺もつられて見て、戦慄した。
人の塊が。服を着た肉の塊が。真っ赤な液体を散らせて、地面に倒れていたのだ。
ビルを見上げる。飛び降りだろうか。とにかく、空から落ちてきたことには間違いない。いや、それよりも……。
俺は自分の足元を見る。飛び散った血が、自分の靴を赤く濡らしている。あと少しでも前に出ていれば、自分はあの死体に巻き込まれていただろう。
「……!」
――松屋間に引き止められたお陰で、俺は助かったのだ。
俺は急いで振り返る。しかしそこに彼はおらず、わらわらと野次馬が集まるばかりだった。
(松屋間は……助けてくれたのか?)
(俺は、アイツにあんなことをしたというのに)
胸が熱くなる。鼻の奥がツンとする。野次馬はどんどん集まってくるのに、誰一人として警察や救急車を呼ぼうとする者はいない。雨に、死体から流れ出した血が滲んでいく。
「……もしもし、警察ですか? すいません、◯◯ビルの下で飛び降りが……」
だから俺は、せめてもの償いに通報をしようとスマートフォンを耳に当てていた。
『へぇ、そんなことがあったんだ』
その日の晩、俺は久々に佐藤に電話をかけていた。彼は小学生の時によく遊んだ仲間の一人である。そして、例の事件が起こった日も一緒にいた。
『実は俺もずっとあの件を忘れられなくてさ。松屋間が生きてるって聞いて、肩の荷が降りた気分だ』
「だろ」
『うん。これ川上とか他の奴にも教えてやっていい? きっと喜ぶよ』
佐藤の声は、心なしかホッとしたようだった。
つけっぱなしのテレビからは、今日のニュースが映されている。本当は適当なバラエティ番組が良かったのだが、それらがあまり面白くなかった為に妥協案で流していたのだ。
『でもさ、その松屋間が言ってた『見ーつけた』ってどういう意味だろうな』
ふと、佐藤がそんなことを言い出した。けれどちょうどテレビで今日の飛び降り事件についてやっていたので、そちらの音量を大きくする。
《本日8時頃、◯◯区交差点近くのビルで飛び降り事件がありました。被害者の名前は、川上……》
「!」
知った名だった。続いて映された見覚えのある顔写真に、思わず身を乗り出す。――川上。俺らの仲間で、家の裏に山があった川上。
『っていうか松屋間が無事だったの、先生とか知ってたのかなー。俺らに話してくれても良さそうなのに』
《当初は自殺かと思われましたが、付近の住民により被害者は数分ビルの屋上にぶら下がった状態になっていたと分かり……》
『そういや川上とか今どうしてんだろ。アイツだろ、松屋間を置いていこうって最初に言い出したの』
《現場には、被害者のものではない歯が残されていました。争った形跡と見られ、警察はビルの防犯カメラに映った人物を……》
『……聞いてる? なぁ、どした? なんかさっきからノイズ……が……』
――もう、佐藤の声なんか一つも耳に入ってこない。心臓が痛いぐらいにバクバクと音を立てている。雨の中で見た黒いレインコートが、汚らしい匂いが、鼻の横の大きなホクロが、蘇る。
川上は、殺された。そして川上が殺されたビルの真下で、俺は松屋間に会った。俺の肩に手を置き、にたにたと笑いながら彼は……。
『見ーつけた』
突如電話の向こうから聞こえた声に絶叫して、スマートフォンを放り投げた。ガチャンとテレビから派手な音がしたが、壊れたかどうかなんて確認できない。俺は、布団の中にもぐりこんでいた。
――ああ、見つかった。見つかってしまった。ずっと隠れていたのに、とうとう見つかってしまった。
そんな言葉が頭の中をぐるぐるとする。少年の気弱そうな目が蘇る。打ち消したいのに、そうしようとすればするほど、丸まった背中の記憶が、指の皮をちぎって食べる松屋間の記憶が、次々と浮かんで止まらない。
吐き気が込み上げ奥歯を噛み締める。――なんで。なんでだ。確かにアイツを鬼にしたのは俺だった。でもアイツを一人取り残そうと提案したのは川上だし、面白がって声をかけなくていいと賛同したのは佐藤だ。そうだ、それに他にも同じことをした仲間はいた。なのに、なんで、俺が、なんで。
だって、なあ、子供ってそういうもんじゃないか。弱い存在だからすぐ周りに流されるし、同じじゃないと生き残れない。だから俺もそうしただけだ。俺は悪くない。悪くない。俺は何も……。
『もういいかい』
松屋間の声に息を飲む。――いや、これは俺の恐怖と混乱による幻聴だ。だって、今のあいつの声がこんなに幼いはずがない。
『もういいかい』
そうだ、幻聴だ。俺は何も聞こえない。何も知らない。何も悪くないのだから。
シーツを噛んで耳を塞ぎ、荒くなる息を押し殺す。なのに、幼い声と足音はどんどん近づいてくる。
『もういいかい』
来るな。来るな。来るな。
『もういいかい』
見逃してくれ。頼む。違う。俺じゃない。俺は悪くない。
『もういいかい』
どうか、頼む、どうか。
俺を、見つけないでくれ。
『……』
――深夜0時。閉じこもった布団の外で、クローゼットの扉が開く音がした。