8:でもやっぱり、ほかのひとと付き合うっていうのは出来ないな
なんかよくわからないけど、氷雨さんは口許と胸元を手で押さえて窓の方を向いてしまった。どうしたんだろ。
まあ、ともあれ。
「でもやっぱり、ほかのひとと付き合うっていうのは出来ないな」
つづけて僕は、きっぱりと言った。
氷雨さんはぴくりとして、肩越しに僕をそーっと見る。
「……出来ない?」
「うん。あくまで僕は氷雨さんと付き合いたい。ほかのみなさんとはお付き合いできそうに、ないや」
「でも、接していくうちに、あいつらのこと好きになるかも」
「それを言うんだったら氷雨さんと付き合ううちに僕はいまよりもっと氷雨さんを好きになる」
アキレスと亀的なことを僕は言った。
すると氷雨さんの瞳が揺れている。
その目に映ってるのは……僕なのか、はたまた。
そのとき思い浮かんだことがあり、僕は視線を切って、背筋を正すフリをした。
さらに拳一個分、彼女とのスペースを広げる。
「……もちろん、氷雨さんが僕なんかに好きになられちゃ困るって言うなら、ちゃんと距離を取るけど」
「えっ」
「もしかしてなんだけど。氷雨さん、燈火さんたちが僕を好きだって言うから、みんなが気を遣わないように、そしてみんなのために――僕と付き合うことにしてくれたのかな……って」
彼女の瞳の奥をのぞいても、べつになにも見えやしないけど。
ひょっとしたらそこに映ってるのは僕じゃなく、あの六人のみんななのかと、少し思ってしまった。
みんなへの思いやりのために……僕と付き合う、と言ってくれたのかなって。
……うーん。
「そうであるなら、僕はそもそも氷雨さんとも、お付き合いするわけにはいかないと思う」
「ん、んんんんぅぇえ??」
「ど、どうしたの急に吐きそうな声で」
「ん、や、ぁ、ぇ、吐きそう、じゃ、なくてっ、泣きそ、」
「ええ……?」
「まった。待って。一旦。整理。ストップ」
目頭をおさえて上を向く氷雨さん。ど、どうしたんだろう。心配。
――ややあって浅い息を繰り返しながらなんとか平静を取り戻した氷雨さんは、「……おまたせ」と死にそうな声で言った。
「ちょっと、取り乱しちゃった……もう大丈夫」
「ほ、本当に大丈夫?」
「ん。大丈夫。つづけよ。……それでその、あの。わたし、あいつらに気を遣ってるところはある。あるけど、でも、早田君のことは……わたしが、好きなの。あいつらに合わせて、じゃなくて」
「んぐ」
いきなり好きとかそんなことを言われて心臓が跳ねた。不意打ちはやめてほしい。
つづけて氷雨さんは、言う。
「さっきはあの、恥ずかしかったから持って回ったような言い方しちゃったけど……わたし、早田君が好き、です。へんな言い方のせいで疑わせて、ごめんね」
「い、いや……いやいや。こっちこそ疑うなんてして、ごめん。ただ、氷雨さんに無理してほしくなくて、」「無理なんてしてないよ! お付き合い、したいと思ってる……!」
僕が空けた拳三個分のスペースを詰めて来て、食い気味に氷雨さんは言った。
唐突に、眼前に差し出された彼女の顔が。
あまりに綺麗で、
瞳の深さがこわくて、
唇の潤みが蠱惑的で、
我を忘れそうになった。
五秒前まで真剣に考えていた「無理してほしくない」だのなんだのという心配のあれこれを、全部放り投げそうになった。「抱きしめたい」とか「触れたい」とかその他もろもろの気持ちが、瞬時に内側からあふれそうになった。
自分の理性が、しっかり準備して構えているときにだけなんとか機能する、いかに薄弱で頼りないものなのかを思い知った。
ギリギリで踏み留まれたのは、バスが停まってひとが乗り込んできたからだ。
あわてて僕は居住まいを正し、氷雨さんもまた距離を取る。
「とっとにかく。付き合わないのはイヤ。です」
「そっそうだね。僕も本当は、いやだ。でも全員とのお付き合いは、やっぱり受け入れがたいよ」
「そ、そっか」
「氷雨さんがみんなにも気を遣ってて、『なるべくなら僕と関わりを持てるように』って考えてるのはわかった。……とはいえ、本気になれないことがわかってるのに付き合うのはお互いを不幸にするだけだ。だから僕は、みんなとは付き合えない」
「早田君……」
「本当は、言われた直後にそう返すべきだったんだろうけどね」
「さすがに直後じゃ言えなかった?」
「いやなんか、みんな言い逃げしてくし六連続で告白されるしで、正直いっぱいいっぱいで……」
思い返すだけでも戸惑いをはじめとしたいろんな感情が膨れ上がる。
その中には氷雨さんと同じ顔で『好き』と言われたことで生じた、動揺とかうれしさ、みたいなものもあった。
でも今日僕は、本人から好きと言ってもらえた。
それがずっと胸の内に響いてる。それが僕の中から動揺と、勘違いのうれしさを消していった。
だから僕は。
やっぱり氷雨さんしか好きになれないのだと、あらためて思った。
「そういえば今日ここにいるってことは、今週木花さんは出てこないのかい?」
「ううん、今日は午前だけ借りたの。このあと帰って眠って、午後からは木花に返す」
「じゃあ午後。今日の帰りのバスで遭遇する木花さんから順に、みんなに伝えていくよ。氷雨さんとお付き合いするから、ほかのひととは付き合えないって」
六人連続で、伝えなくちゃならない。
なかなかに骨が折れそうだ。
「交代するときに、みんなへ伝えてくれないかな。今日から六日間、また同じ時間にバスに乗るから会ってほしいって」
「……断りなら、わたしがその交代のときに伝えることもできるけど」
「いや。僕も告白した身だから、その行為がどれだけ大変なことかはわかってる。それなのに直接言わず済ませるのは不誠実だと思うし、ちゃんと自分で断るよ」
「ん……わかった」
氷雨さんはこくりとうなずく。
と、そこで次のバス停のアナウンスが入った。僕の学校最寄りだ。
「ごめん、降りなきゃ。それじゃ、そういうことで」
「うん。早田君、ありがとう」
「こっちこそ。どういうかたちであれ、氷雨さんに一歩近づけてうれしかった」
素直な心情を伝えると、氷雨さんは「ん……」と息をのんだような顔をして、そそくさと僕から顔を背けた。可愛い。
それから氷雨さんはスマホを取り出し、こっちへ向き直った。
「……あの、連絡先。水曜の間は返信できるから」
画面にはSNSのアカウントを表示しており、そのDMでやりとりをしようとのことだった。
端末ごと設定のアドレスやアプリでは彼女ら七人で使いまわせないので、どうやらSNSのアカウント切り替えで個々の連絡先としているらしい。
「ありがとう。色々、連絡する」
「ん」
はにかんだ顔で、氷雨さんはこっくりとうなずいた。
バスが停まる。
僕は片手を振って、バスから降りる。氷雨さんもひらひら、手を振ってくれた。思えば八月に出会って以来、彼女に見送られるのは初めてだ。
十月も下旬に入って、やっと風が涼しくなってきていた。
日差しがまぶしくて、なんだか叫び出したいような気もする。
「氷雨さんと、付き合えたのかぁ」
口に出しても事実のような気がしなくて、けれど笑いがこみ上げて来て。
僕は足取り軽く、学校までの道を歩いた。
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「あいつ付き合うって言いに行ったわけだし、たぶんそうなるんだろーけど」
氷雨を蹴り出した直後。
広間の机の上に放り出した両脚を交差させて、ぎこぎこと前足浮かせた椅子を船漕ぎさせながら燈火が言う。
残り五名の視線が集まったところで、立てた人差し指同士をくるくると回した。
「さーていつまで、お付き合いできると思う? ――七重人格と」
にやっと笑い、燈火はガンっと椅子の前足を床にたたきつけた。




