:実際が、実態がどうかなんて――
「……時間はかかるでしょうが、こうなるのではないかと薄々感づいていました」
翌週、年明け。
木曜日に喫茶店へ現れた木花さんは、静かにそう口を開いた。
あれから。
氷雨さんと木花さん、そして燈火さん釦さん吉埜さん日乃さん月乃さん……全員を交えての話し合いが、幾度となく行われたらしい。
果てに、もう一度僕に会いたいと木花さんが言ったそうだ。
僕も一度、会いたいと思っていた。
だからこうして、会話の席を設けている。
「『こうなる』って?」
「あなたと氷雨さんが、元の通りにくっつくということですよ」
「……そう思ってたんだ」
「もちろん、『そうならなければいい』とも思っておりましたが」
机の上のカップに一切手をつけないまま、木花さんは膝の上で組んだ手を崩さない。
「でも、あなたがぼくを選んでくれる可能性は、きっとないだろうとも。思って、おりました」
言いづらそうに。
自分の願いを自分で叶わぬものだった、と定義して木花さんは唇を噛んだ。
「なのに、ああいうことをしたんだね」
「八つ当たりというのはそういうものです」
「自覚はあるんだ」
「好きですから。あなたのことが」
氷雨さんと同じ顔で好き、と言われているのに、微動だにしない自分に気づく。
木花さんもたぶん、そんな僕の状態を察した。かすれた笑い声を微かに立てて、机に頬杖をついた。
「あきらめきれませんが……あきらめようと、努力します。ぼくは、あなた以外のなにかで、自分を幸せにしようと思います」
「……そう」
「はあ。はははは。……災難でしたね、早田さん。複数人格の女たちに好かれて。でももしかしたら、ぼくの件はまだ、マシな方だったと今後思えるかもしれませんよ」
片手でシュガースティックをあけて、コーヒーの中に流し込みつつ言った。
なんとなくその先の言葉については予想がついていたので、僕は返す。
「木花さんやほかのみんなが、氷雨さんと同じ身体の内にいる。考えのちがう人が、好みのちがう人がいる……それこそ、ほかのみんなが僕じゃなく、どこかの誰かに恋をすることだってあるだろうね」
言おうとしていたことを正確になぞったのだろう。木花さんはわずかに驚いた顔をして、それから目を閉じた。
眉根を寄せて、思い悩む顔色を、わずかに見せた。
「苦労しますよ。きっと」
それはきっと、恋を除いたほかの、人生の諸々すべてについても掛かる、重くのしかかる『苦労』なのだろう。
「でも僕は、氷雨さんが好きなんだ」
だからどうしようもない。それらの苦労も、簡単には答えが出せないしいま悩んでたって未来には考えが変わるかもしれないが。
僕にできるのは示すことだ。いまここに僕がこうあることを、氷雨さんに共にあってほしいと望んでいることを、示しつづけることだけだ。
そういう意味を込めた言葉に、コーヒーをひとくち飲んでから木花さんが問う。
「……どうして?」
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「どうして、わたしなの」
二人で歩く帰り道。
廃墟の映画館から出てきて、通りの広い道を選び。暮れかけた日の中で輪郭の滲む影を追いながら、手を繋いでいる氷雨さんはふと僕にたずねた。
「いままで、訊いたことなかったけど。どうして、わたしだったの?」
僕が彼女を選んだ、好きになったきっかけについて。
そういえば喋ったことなかったなと思い、首の裏を掻きつつ僕は答える。
通り沿いに走るバスの巻き上げる風が僕らを追い抜いていく。
そうだ、ちょうどあのバスだ。いつも僕らが乗るバス。
思い返すのはあの車中。
目に入っていても互いに僕らは、景色の一部だったあのころ。
「ほんの些細な、ことだったよ」
バスの中で倒れた人がいた。どうも持病だったらしい。
顔を真っ青にして泡を吹き、僕の横に倒れた。一番近かったから、僕は駆け寄って様子をうかがった。そうすべきだと思ったから。
でもパニックになってしまって、それ以上なにをすればいいかもよくわからない。呼吸はある。脈拍も、異常だけどある。けど苦しそうにしている。
不安から車内を見た。
でもほんの一秒の視線の巡りの内で、反応を返してくれたひとはいなかった。スマホを見ているのか目を逸らしているのか、こちらを見てはいても僕とは目が合わないか。
そんな、中で。
「イヤホンしてるのに、真っ先にこっちに来たのが氷雨さんだった」
「あ……あのイヤホン、じつはなにも聴いてなくて。話しかけられるの面倒だから、っていう装備」
恥ずかしそうに氷雨さんは言った。
要するにほかの人格のときの知り合いとかから、必要以上に話しかけられないための措置だったらしい。
「でもそれって、他人と関わらないようにするためのものだろう」
「めんどうくさいから……」
「でもきっと一番面倒臭いであろう状況に、関わってくれた」
運転手に「病人です」と告げて止まるようお願いし、倒れた当人には「頭打ってないですか、薬とかは持ってますか」と確認をして、近くでスマホをいじってた人には救急への電話をお願いしていた。
結局倒れた当人は途中で回復したのか、止まった場所で救急車を待つうちに会話できるくらいにはなったのだけど。氷雨さんは、いたく感謝されていた。
「なんか、やたら手際よかった」
「それもね……わたしも、『入れ替わり』がいまみたいに固定じゃなくて不意に起こる時期あったから。寝たはずなのに急に街中に立ってる――みたいな状況で、パニックになって過呼吸で倒れたり……要は当時者側の経験多かったんだよ」
だから大したことじゃないの、と彼女は言う。
本人がそう言うならそうなんだろう。
けど、あのときの僕からしてみたら。
「それでもあのとき、僕は助かったなって思って。イヤホンしてても周りをよく見てる、すごくいい子だと思った」
「……実態というか真実はこんなんで、ごめんねなんか」
「まあ、イヤホンでなにも聴いてなかったっていうのはちょっと驚いたけど」
茶化すように軽く笑う。つられて彼女も笑ってくれた。
でも。
でもさ。
「実際が、実態がどうかなんて――いまの僕にとってはどうでもいいことだよ」
「え?」
「知り合って、喋るようになって、知っていった氷雨さんに惹かれたんだ。きっかけや動機はたしかにあの日の氷雨さんがすごくカッコよく見えたからで、いま種明かしされてその像はちがうってことわかったけど」
足を止める。
誰彼時の夕日の中で、繋いだ手の先にたしかにいる氷雨さんと目を合わせる。
「でも、僕が好きになったのは。古い映画の話とかもできて、些細なことでも大げさに喜んでくれて、うふへへって笑って、僕のことを好きって言ってくれる、そういう氷雨さんなんだ。あの日の実態が、真実がどうだったかなんて関係ない。いまの僕にとっての真実は――いまここにいる氷雨さんを、僕がすごく好きってことだけだ」
日が暮れていく。
薄闇に、僕らの表情が閉ざされていく。
それでも繋いだ手は間違いなく温かで、僕らの存在を互いに伝えあっている。
ふるる、と氷雨さんの手が震えた。
「……ありがと、早田君」
――いま、わたしも。
――いまの早田君が、好き。
短く告げられたその言葉だけで胸がいっぱいになる。
この先も僕らはいろいろあるのかもしれない。普通の男女関係では苦労しないことで苦労するのかもしれない。
だとしても、僕らは選んだ。
いま、自分が間違いなく必要とする相手を、大事にしたいと思ったから選んだ。
来週も再来週も、そうありつづけるといいな、と感じている。
「いこう、氷雨さん」
「うん」
少し歩幅の狭い氷雨さんと。
僕は歩く。
この先もきっと、一緒に。並んで二人、歩いていく。




