25:わたしがいる。ここに、いる
自分にたいした価値が無いのでは、というのは、ずっと考えていたことだった。
ほかのみんなとちがって、わたしは突出したものがない。
趣味というほどの趣味はなく、
ひとに誇れる長所はなく、
友達もおらず。
淡々と、ぼんやり日々を過ごす。
そんなわたしに降ってわいた、ときめき。
『これが、いまこれを感じている自分こそが、自分なんだ』とはじめて思えた。同時に、『こんな無価値な自分じゃ釣り合わない、無理だろう』と思った。
でも早田君はわたしの手を取ってくれた。
まったく同一の身体で、中身のちがう、それもほか六人のように突出したものもないわたしを。選んでくれた。
それでも最初のうちはこわくて、いつフラれるかと気が気じゃなくて、ポーズとしてフラれても大丈夫なように演じていた。
いつしかそんな心配もしなくなっていた。
このひとは私を必要としてくれる。わたしもこのひとが必要。
それを当たり前のこととして受け入れ、分け合えて。
これこそが自分だ、って確信を強めてきて。
なのに。
その、自分自身だと思えたはずの感情が。感覚が。
自分のものじゃなかったなんて。
「……さむ」
膝を抱える。
もぐりこんだ廃墟のラウンジの中、赤い絨毯が広げられた先にあったシートの上で、わたしは座り込んでいる。
長いあいだ誰も入ってきていないのであろう空間は埃っぽくて、建物の隙間から差し込む光の中、わたしの吐息と塵がきらめく。
スマホの画面を開く。もう午後四時だ。
早田君はまだ、家の前で待ってるのかな。
待たなくて、いいのに。
こんな、自分自身さえあいまいであやふやなわたしなんて。
「帰ったら寝て……来週までは休みだから……その次の週からは、バスの時間ずらして通学しよう」
なにも変わらない。
ただ、彼と出会う前の生活に戻るだけ。
ただそれだけ、なのに。
なのに。
「……わたしは」
締め付けられるような胸の痛みを、ぎゅっと拳を握ってこらえる。
たぶんこれからずっと、そうしていく。
何ごともなかったかのように。
何も起きないように。
そうあることだけを、ただ願って。
……、
…………、
そんな、日々って。
とてもじゃないけれど。
もう。
耐えられ、な――――
「氷雨さん」
漏れそうになった嗚咽が引っ込んだ。
いま一番、聴きたい声が聴こえた。
同時にいま一番、会いたくない声でもあった。
抱えた膝のあいだに埋めていた顔を、おそるおそる上げる。
そこにいたのは――やっぱり。
「こんなところにいるとは思わなかったよ」
言って、彼は積もった埃を踏みしめてくる。家にいないことに気づいたんだ。お母さんが、話したのかな。
でも、わたしは行き先がどこかなんて言っていない。
絶対に見つからないはずだと思って、ここを選んだ。
なのに――
早田君は、チケット売り場を背にして。
こんな、誰も立ち寄らないはずの、町はずれにある閉業した映画館の中。
平然と立っていた。
わたしに手を、差し出していた。
「……どうして。いると思わなかったのに、ここに来たの」
「ほかに心当たりのある場所、もう全部、まわってきたから……氷雨さんの知ってる、身を隠せそうな場所。僕との会話で出てきたの、もうここしか残ってなかったから」
そう口にする早田君は真冬なのに汗だくだった。少し冷えたのか、へくし、とくしゃみをする。
ここについて、話なんてしただろうか? ……ああ、そういえば。まだお付き合いする前、少し雑談するだけの関係だったとき。映画の話から、ここのこと話したっけ。
そんなわずかなやりとりでさえ。
大事に、取っておいてくれてたんだね。
「そんなことしなくて、いいのに……」
彼がわたしのためにする、すべてのことについての言葉。
けれど早田君はわたしを探していたことについての言及だと思ったらしく、困ったように眉尻を下げてぼやく。
「するよ。僕は『そんなこと』だなんて思ってないから」
平然と、言うのだった。
彼がそんな風に当たり前に在ってくれることが、いまのわたしには尊くて、同時につらい。
「……『そんなこと』だよ」
わたしは遮るように言った。自分の耳を塞ぐように口にした。
「早田君の気持ちに応えられるような『自分』が、わたしにはないんだから」
自分で言っていて、自分が一番傷つく言葉だった。
ない、ない。なんにもない。空虚さで胸いっぱい、なんて矛盾を抱えたわたし。
こんなわたしに付き合わせて申し訳ない。木花に対しても、怒ってるし、恨んでるけど……やっぱり、その気持ちを盗んでしまったことは申し訳なく思う。
だからわたしは、早田君の手を取れない。膝を強く抱え込む。
「わたしに価値なんてない。わたしが早田君に対して抱いた気持ちは木花から盗んだもので、わたし自身なんて最初からどこにもなかった」
デートしたときの興奮もときめきも。
本来なら木花が感じるべき、ものだった。
当たりが強くなるのも当然のことだった。わたしがしていたのは、木花の前で盗品を見せびらかすようなことだったんだから。
「だから、なかったことにしよう。この四か月、全部」
あっという間の四か月。
なかったことにできるのは、いつになるかわからないけど。区切りをつけなきゃやっていられない。
お別れを。
ただ、いまは、さよならを言わせてほしい。
「七原氷雨なんて、最初からどこにもいなかったようなものなんだから――」
「じゃあどうしてそんなに苦しそうなんだ」
手を差し出した格好のまま、早田君は言った。
言われてわたしは。
抱えた膝の上が、熱く湿っていることにいまさら気づいた。
「泣いてるじゃないか」
「……『木花が別れを自分から切り出したらこうやって傷つく』、っていう反応を、身体がなぞってるだけだよ」
感情のトレースに過ぎない。
そう断ずるわたしに早田君はかぶりを振る。
「はじまりがどうであれ、いまの氷雨さんの気持ちは氷雨さんのものだ」
「そんなことない」
「ある。動機とかきっかけなんて些細なことで、はじまりははじまりに過ぎなくて、その先は積み上げた自分だけのものだ。……配信者にあこがれて配信はじめた燈火さんの成果は、動機を与えた配信者のものかい? 教えてもらいながらメイドやってお客さんもついてる釦さんの人望は、教えた人のものかい? 吉埜さんの釣りとか料理の知識は? 月乃さん日乃さんのゲームの知識や人脈は? ……木花さんだって、きっとだれかの真似ではじめたはずのブログで、だれかと繋がりを保ってる」
あいつらのことを並べて、早田君は息をついた。
本当に、よく人を見ている。
長い付き合いではないはずなのに、あいつらのことも……よく知って、くれてるんだ。
そのことがうれしいと同時に。
心の中に芽生える、ちいさいけど赤黒い情念。
「はじまりがどうあれ、たとえ木花さんの影響であったとしても。そこから氷雨さんが僕と積んできたんだ。いい感情も悪い感情も、僕と繋いできたんだ。いま泣いてるのはきみなんだ、氷雨さん。そして、きみが自分をどう思っていたって、たとえ『自分』なんて無いと思ってたって、僕はきみが好きなんだ。きみがそこにいるって思ってるんだ」
差し出されていた手を、
いつのまにかわたしはつかんでいた。
そのまま寄りかかるようにして。
早田君に抱えられる。
わたしはすぐに、彼に伝える。
「あいつらのこと、よく見てくれてる、って思って」
「?」
「わたし、うれしいと思ったけど。同時に、早田君があいつらに気持ちを割いてることに、嫉妬した」
「……うん」
「これも、『わたし』だと思って、いいのかな。……『わたし』って、ちゃんとここにいるのかな」
「ちゃんといるし、いてほしい。僕が、そう思ってるんだ」
その言葉だけで、充分だった。
なんということはない、わたしは自分に自信がなくて、自身がないように感じていて。
でも自分がほしかった。これが自分だと思えるものを、だれかに認めてほしかった。
早田君のそばにいる自分を、自分だと認めたかった。
「早田君」
「うん」
「好きです」
「……はい」
鼓動が高鳴る。
自分だけの律動を刻む。
わたしがいる。
ここに、いる。




