第三十六話「ギャップとギャロップ」
結果から言えば、僕は命を落とさずに済んだ。最後の石英板に踏み込んだ瞬間、扉の向こう側からガシャンガシャンという冷たくも重たい金属音が数回鳴り響いた。音が已んでから力いっぱいに取っ手を引くと、扉の先には梯子があり、頭上には小さく丸い空が光って見えた。
「これは、はなから飛んだ方が早かったかな……」
半分ほど登ったところで、これ以上魔力と体力を消耗して獣人の身体を維持する必要もなかろうと判断し、僕は変身を解いた。そして、空飛び猫の姿に戻って飛び続けていると、王宮内にある広い庭園の一角へ出ることができた。先程まで居た謎解き空間は、どうやら古い枯れ井戸の下と繋がっていたようだ。
剪定や清掃が行き届いた庭園には季節の草花が咲き、中央には噴水があり、所々にアイアンの休憩用ベンチや石膏またはブロンズの彫像もある。特に目を惹くのは赤に白に花弁を広げる薔薇たちで、機会と時間があれば朝からゆったりと愛でて回りたいくらいの美しさを誇っている。
ただ、庭園全体として見た場合、敷地は二つの宮殿とその間を結ぶ二本の柱廊とによって四角に区切られ、すべてが何もかも整い過ぎているせいで現実味が薄く、俯瞰するとかえってどこか空虚な印象を与える造りになっている気がする。
若さまの姿が見えないだろうかと、目を細めて縦横に無数に並んだ小窓を順々に観察していると、蹄の音と共に、氷柱のような背中に冷たく突き刺さるような声が飛んできた。
「そこの空飛び猫、何をしている!」
「オッと。これは失礼」
声がした方へ顔を向けると、見覚えのある半人半馬の妙齢女性が立っていた。
「おや? あなたは、ゲルハルトさまのお店の常連さんではありませんか。たしか、赤ナス村のイバルロンドさま。今から夜警ですか?」
「なんだ。よく見れば、ドーナツ屋に居た奴じゃないか。自分は、寝ずの番を終えたから、陛下の側近に報告書を渡して帰宅するところだ。ほら、ご覧の通り丸腰だろう?」
「そのようですね」
以前に店先で会った時とは違い、制服は着ているがグレイブは所持しておらず、代わりに革の鞄を肩に提げている。
「ところで、どうやって忍び込んだんだ? 城壁の周囲には、常に監視の目が光ってるはずだが」
「何事にも抜け穴はあるものでして、僕の場合はガーゴイルの手を借りました」
「ガーゴイルだと。あの、雨樋の先に置かれてる石像か?」
「ええ、そのガーゴイルです」
イバルロンドさまは片眉を吊り上げ、どこか釈然としないようすだったが、すぐに僕の説明を横へ置き、来訪の用向きを聞いてきた。
「それで、ここへは何のためで来たんだ。ご主人さまのお遣いか?」
「いえ、個人的な疑問の解決のためです。若さまとお話したいのですが、今どちらにいらっしゃるかご存じでしょうか?」
「ああ、居場所は把握している。だが、溜まりに溜まった執務を片付けることが喫緊の課題であるから、ゆっくり歓談している暇は無いはずだ」
「そうですか。それは残念ですね」
「本人に会わないといけない内容なのか?」
「と言いますと?」
「執事なら、代わりに会って話を聞いてくれるのではないかと思うんだ」
「執事さまは、若さまのことをよくよくご存じなのでしょうか?」
「陛下が即位される以前からこの城で働いてる古株らしいから、王室については誰よりも詳しいのではないかと思う。もっとも、自分とは面識が薄いから、あくまで他の部隊の先輩から伝え聞いた話だがな。どうする?」
「では、執事さまのところまで、案内していただけますか?」
「了解。しっかり掴まっておけ」
そう言いながら、イバルロンドさまは僕の首根っこを掴み上げ、自身の背中に乗せた。
僕は、制服の端を足で押さえ、早足で歩くイバルロンドさまから振り落とされないように気を付けていたが、ふと、彼女の後ろ髪や鞄に可愛らしい飾り紐が結ばれていることに気付いた。
「つかぬことを伺いますが、こちらの飾り紐は願掛けか何かですか?」
「えっ? まあ、そういう意味合いもあるが、もともと小物集めが好きなんだ」
「へえ。それは、可愛らしい趣味をお持ちで」
「身形に合わないから、隊員には黙ってるんだ。こんな厳ついガタイをしてるくせに、似合わない趣味をしてるだろう?」
「いえいえ。その意外性が、かえって魅力的です」
「……そうか」
僕の視界からは角度的に後ろ頭しか見えないのが残念だが、きっと正面に回って顔を見れば、嬉しさと恥ずかしさが入り交じった素敵な表情が見られたことだろう。




