第三十三話「若さま再び」
サコッシュを斜めに掛けたご主人さまと、いつもは売れ残ったドーナツを入れているバスケットを手にしたズヴォネクさまが並んで茜色のパサージュを歩いている。僕は、ふたりが歩いている背後に伸びる長い影を踏むような形で後に続いている。今歩いているのは、野菜や果物といった生鮮食品を扱うお店が多いエリアで、どのお店も日が暮れる前に少しでも多くの商品を売り切ってしまおうと熱心にアピールしていて、賑わいが増している。
「ゾラのおかげで、美味しそうなお魚がリーズナブルに買えたわ」
「へへん。あたしは、どの店でどの品物がどのタイミングで安くなるか、だいたい把握してるからな。それと、婆さん直伝の値切りのテクニックも」
バスケットの中には、新聞紙で包まれた魚が三匹入っている。言い値で払おうとしたご主人さまを制し、ズヴォネクさまは「まとめて買うから安くしろ」とか「朝に仕入れて鮮度が落ちてるから半値にしないと買わない」とか商人泣かせの無理難題を吹っ掛けた挙句、一匹分の価格で三匹買うことに成功してしまった。買い手としては大いに得をしたが、売り手側である半人半熊の気の弱そうな店主が大損をしてないか、ちょっと心配になってくる。
「どうして、このお魚が新鮮じゃないって分かったの?」
「目が濁ってるってのもあるし、頭を上にして剣みたいに構えた時にフニャッと曲がったからさ。獲りたてなら、もっとピンと立つはずなんだ」
「へぇ~、詳しいのね」
「すべては生きるための知恵さ。――レベッカ、左!」
「えっ? ――キャッ!」
前方注意、出会い頭に気を付けよう。そんな標語を立てた方が気休めになるかもしれないような見通しの悪い交差点で、ご主人さまは、また殿方と接触してしまった。今度はバランスを崩すほどではなかったが、代わりに相手の帽子を叩き落としてしまった。ぶつかった青年は立ち止まり、被っていた鳥の羽根が品よく控えめにあしらわれた鍔が広いハット帽は、ヒラリヒラリと宙を舞ったのち、僕の姿を覆い隠すように落ちてきた。
「ご主人さま、僕の視界は真っ暗です」
「あっ、そっちへ飛んでたんだ。――ごめんなさい。ついつい、お喋りに夢中になっちゃって……」
ご主人さまはハット帽を拾い、軽く埃を払ってから持ち主に返そうとした。しかし、ベルトと斜め掛けのストラップを着けた狩猟スタイルの青年の顔を見た瞬間、ご主人さまの動きは止まり、言葉も出なくなってしまった。傍目でも、青年の格好良さに思わず胸が高鳴っているのが見てとれる。
では、すぐ隣にいるズヴォネクさまはどうかというと、ご主人さまとは対照的に、親の仇敵でも発見したかのような表情で青年を指差した。
「あー、貴様、このあいだもレベッカに突撃してきた野郎じゃねぇか!」
「そういうお前は、あの時の礼儀知らずだな。この俺が誰かまだ分からないとは、相当な田舎者か、それとも相当な馬鹿者か?」
「へん! 馬鹿っていう方が馬鹿ですよ。ばーか、ばーか!」
「この無礼者め……」
ズヴォネクさまの年相応の安直な煽りに対し、青年が苦々しい顔をしていると、遠くの方から「若さまーっ! そこにいてくだされーっ!」という聞き覚えのある大きな声が聞こえてきた。声のする方を振り返ると、やはり燕尾服を着た羊のような角と山羊髭が特徴的な紳士が、こちらへ向かって走って来ている。
「帽子を拾ったことは感謝する。では、失礼!」
「おい、待て! 決着は今度って言ってただろうが、こら! 約束を果たしやがれ!」
「お待ちくだされ、若さまーっ!」
ご主人さまの手からハット帽を取り上げた青年が走り去り、それを追い駆ける紳士が通り過ぎたあと、ズヴォネクさまは青年の後ろ姿に舌打ちしてから地団太を踏んだ。僕は、ボーッとしたままのご主人さまの肩に飛び乗ると、前脚の肉球でペチペチと軽く頬を叩いて正気に戻した。
「ご主人さま、ご主人さま。若さまなら、もう居ませんよ」
「ハッ! 私ってば、どうしちゃったんだろう。あのハンカチを持って来ておけばよかったかな。それとも、お名前を聞いておくべきだった?」
「どちらも正解とは言い難いところですね。それより、その羽根はどうしますか?」
「羽根? あら、大変! さっきのお帽子のじゃない!」
「まぁ、追い駆けても間に合いませんから、ハンカチと一緒に置いておくことですね」
「うーん、そうねぇ。どこの誰かわからないし、こんな風にまたばったり会うかもしれないものね」
サコッシュから薬草を入れるための紙袋を取り出すと、ハット帽についていた飾り羽根を入れ、口を二度ほど折ってからサコッシュに仕舞った。
僕は、ご主人さまの肩から降りると、ズヴォネクさまにお願いした。
「あの、ズヴォネクさま」
「ゾラでいいって。何か頼みか?」
「はい。ちょっと一人で調べておきたいことがあるのですが……」
「あたし一人でレベッカを家まで送って行けって言うのか?」
「話が早くて助かります。お願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん、いいぜ。あたしに任せておきな」
「助かります。ディナータイムには戻りますので」
ご主人さまのことをズヴォネクさまにお任せした後、僕は自分の仮説が正しいかどうかを確かめるため、お城がある方角を目指して飛び立った。あの夕映えに浮かぶ青年の横顔、昨夜見たずぶ濡れのレオナールさまと、どうも面影が似てるんだよね。




