第三十二話「言わずもがな」
時間にして10分くらいだろうか。
無限に続いているように思えたけたたましき騒音地獄は、レオナールさまがハンドルを取舵いっぱいといった調子で左へ勢いよく回したことで終了した。
「熱いから、離れていたまえ」
「あっ、はい」
焼き立てのビスキュイが載った熱々の天板の取り出すべく、レオナールさまは、先日キッチンにあったタータンチェックのミトンを手に嵌めた。ご主人さまが使用された際と違い、ミトンは左右とも手の大きさにジャストフィットしている。
全体が鉄で出来たペンキ剥げかけのガーデンチェアの座面に天板を置くと、レオナールさまは背もたれにミトンを引っ掛けた。それから、梁からロープとチェーンでぶら下げているランプや葡萄の焼き印がされたワインの木箱の端へ積み上げた本を、慣れた調子で長身痩躯を曲げながら器用に躱しつつ、作業机の上に煉瓦ブロックを敷いて載せてあった別の天板に近付いた。素手で軽く触って火傷する心配が無いことを念入りに確かめると、そのまま持ち上げてご主人さまの方へ戻って来た。
ご主人さまも、天板の上のお菓子に興味を抱いた様子で瞳を輝かせつつ、恐る恐るレオナールさまに近付いた。
「こっちは、君らが来る前に焼き上がった分だよ。ちょうど、バターが固まって食べ頃になったんじゃないかと思うんだが」
「わ~、美味しそう!」
「味は保証するよ。好きなだけ召し上がれ」
「良いんですか? それじゃあ、お言葉に甘えて……」
ど・れ・に・し・よ・う・か・な、つ・か・ん・だ・み・ぎ・て・は、ド・ラ・ゴ・ン・の・つ・の。ご主人さまは、並んだビスキュイをジグザグに指差しながら、青リンゴ村方式で最初の一枚を選別した。正方形の生地の上に、何やらジャムのようなものが塗られている。それを二つに割ると、ご主人さまは僕の顔の前に近付けた。
「はい、こっちはスノウの分」
「僕の分は結構ですよ、ご主人さま。材料にナッツ類が入っているといけませんし」
「その心配は不要だよ、ムシュー。君も食べるかもしれないと思って、あらかじめ、マダム・ベニエに空飛び猫に与えてはいけない食材リストを聞いてある」
「それはそれは。用意周到なことで」
この時の僕は、この梟男が何か良からぬ企みをはたらこうとしている気配をヒシヒシと感じた。けれど、それに気付かず善意だと思って疑わないご主人さまが無邪気な笑顔でビスキュイを差し出してくるので、僕の前には拒否権を行使するという選択肢が存在しなかった。
異変が起きたのは、そのまま二人で4枚ほど食べ進めた時だった。
「ところで、マドマーゼル。正直なところ、そっちのムシューと一緒に居て困ることは無いかい?」
「うーん、どこへ行くにも何をするにもいちいち口出しされるのは、ちょっと鬱陶しいかな。――あっ!」
「僕のこと、そんな風に思っていたのですね、ご主人さま」
僕が不満を示すように目を細めると、ご主人さまは慌てて弁解しようとした。しかし、口から出てくる言葉は、頭が固いだの、小煩いだの、謝る気持ちが到底無さそうなものばかり。
「そういうムシューも、もっとこうして欲しいと思うところは無いのかい?」
「そうですねぇ。頭の中でよくよく考えてから行動してもらいたいとは思ってますよ。まったく。旺盛な好奇心に振り回されるこっちの身にもなって欲しいものだ。――いえ、僕が言いたいのはですね……」
「へ~。スノウったら、いつもお腹の中でそんなこと考えてたんだ~」
「待ってください、ご主人さま。落ち着きましょう。これは、きっと罠です。――ビスキュイに何を仕掛けたのですか、レオナールさま?」
「そんな怖い顔をして睨まないでくれたまえ、ムシュー。ちょっとした遊び心で、本音を口にしてしまう効果を加えただけさ」
このあと、お互いに溜め込んでいるストレスを発散させれば戻ると言われたため、ご主人さまと僕は、普段は言わずにいたことを洗い浚い白状する羽目に陥ってしまった。センスが悪いだの、考え方が古いだの、それぞれに言われたところで改善しようのない点が多かった。だが、中には無自覚な癖に気付かされる発言もあったので、まったく迷惑な発明とも言えないのも癪だった。
ちなみに、表面にジャムのようなものを塗っていないビスキュイは、種も仕掛けもない普通のものだったようで、レオナールさまは僕らが侃侃諤諤している隙に、何食わぬ顔をしながらノーマル版を食べ進めていた。
「どこにも居ないと思ったら、二人ともここだったのね。探したよ」
「あっ、グレーテさん。何かご用ですか?」
「ちょいとお遣いに行ってきて欲しいのよ」
「わかりました」
「僕がエスコートしようか?」
「一人前はマカロニ何個か訊くような人に、買い物を任せる訳ないでしょ。――路地の方でゾラちゃんが待ってるから、道案内してもらって」
「はい。すぐ支度します」
ゲルハルトさまが呼びに来たことで、午後の災難なスイーツタイムはお開きとなった。ガレージの外へ出ると、空は夕暮れが迫っていた。




