第三十話「ガレージクック」
犬は主に懐き、猫は家に懐くなんて言葉があるけれど、猫でなくたって一度住み慣れた家は、ホームグラウンドとして認識するものだと思うんだよね。君たちの世界の言葉で言えば、住めば都ってところかな。
ご主人さまも、ようやく王都暮らしに慣れ始めてきたみたいで、スラム街を抜けてからゲルハルトさまの家までの足取りに、まったく迷いが見られなかった。それどころか、こうして雑談を交わす余裕まである。
「今日の空は、スッキリしてて気持ちが良いわ」
「そうですね。そういえば、なんだかんだあって、まだ一度も箒に乗る練習をしていませんね」
「それは、私も頭の片隅で考えてた。お天気もいいし風も強くないから、絶好の箒乗り日和ではあるんだけど、ノーラちゃんのことがあるから今日は無理だと思ったのよ。それに、しばらく居るんだから、焦る必要はないじゃない」
「なるほど」
路地から木戸を抜けて庭へ足を踏み入れると、ご主人さまと僕は、ガレージの方から何やらシュコーシュコーと一定のリズムで空気が押し出されるような物音がすることに気が付いた。知的という前置詞を付けるかはさておき、好奇心を刺激されたご主人さまがガレージに向かったので、僕は未知なる危険が及ばないか警戒心を働かせつつ、一歩後ろから付いて行った。
「中にルシアンさんが居るのかな。あくまで起きてたらの話になりそうだけど」
「流石に正午を回ってますから、お目覚めだと思いますよ。お一人にしては、随分と騒がしいですね」
「何の音だと思う、スノウ?」
「さあ、僕には皆目見当もつきませんね。機械的な音だとは思いますけど、聞き慣れない感じがします。何が飛び出してくるか予想できませんから、お気を付けください」
「分かってるわ。んもう、スノウったら心配性なんだから。――ルシアンさん、入っても良いですか?」
中の音に負けじとバンバンと強めに引き戸を叩きながら、ご主人さまは入室許可を求めた。しかし、ガレージから返事は無い。取っ手に両手を掛けてスライドさせてみると、扉は難なく動いた。内側から鍵は掛かっていなかったようだ。開けた瞬間、指二本分程度の隙間から麦を焦がしたような香ばしい匂いが漂って来た。
「パイでも焼いてるみたいね。いい香り」
「そうですね。場所がキッチンでなくガレージであるところに、違和感を覚えますけど」
「言われてみれば、そうかも。うーん。古ぼけたガラクタの山の中に、竈の代わりになるような物なんて、あったかな……」
「まぁ、百聞は一見に如かずと申しますから、その目で確かめた方が早いのでは?」
「それもそうね。――失礼しまーす!」
更に引き戸を開いてガレージ内へと歩を進めると、蒸気が排出されたようなシューッという音を最後に、ガレージの外まで聞こえていた機械音が鳴り止んだ。
「あれ? 音が止まっちゃった」
「稼働が終了したみたいですね。何だったのでしょう?」
「ラボラトリーへようこそ、マドマーゼル・ソルシエール(=魔女さん)、ムシュー・シュヴァリエ(=騎士くん)」
「わっ!」「ひっ!」
物音の正体を探ろうと、ご主人さまと僕が不用品の山を掻き分けながらガレージの奥へと進んでいたら、唐突に背後からレオナールさまの声がしたので、ふたり揃って驚いてしまった。この有閑紳士は、他人を仰天させるのが趣味なのだろうか。まったく以て心臓に悪い。
レオナールさまが何をしていたのかについて、また、その後にご主人さまと僕の身に降りかかった災難については、このあと改めてお話しよう。




