第二十五話「払暁まで」
梟のような翼を持った男性は、ゲルハルトさまが着替えやバスタオルと一緒に持ってきたパンと野菜スープの甘く香ばしい匂いに誘われるように起き出した。
僕がご主人さまの両目を前足で塞いでいる間に、ゲルハルトさまは男性の背中を拭いたり、靴下を履き替えさせたりしていた。背中の翼は本人の意思で自由に出し入れ可能なようで、どういう仕組みかは知らないが、着替え終わった彼の姿は、君たちの世界に住む男性と大して変わらないように見える。
「ねぇ、スノウ。まだ終わらないの?」
「もう良いでしょう。お待たせしました」
「あれ? 髪が濡れたままじゃない。――ちょっと目を閉じててくださる?」
そう言いながら、ご主人さまは懐から魔杖を取り出し、男性の長髪に送風魔法を掛けた。
どうやら男性は、ご主人さまが魔女だとは考えていなかったようで、跳ねた髪を手櫛で適当に整えつつ、奥に微笑みを湛えた興味深そうな目でご主人さまの方を見ながら言った。
「メルシー、プティットゥ・ソルシエール(=ありがとう、小さな魔女さん)」
感謝の意を表するためなのか、男性は手慣れた様子でご主人さまをハグし、旋毛の辺りに軽くキスをした。ここまで一連の立ち居振る舞いを観察してきて、僕はこの男性が貴族趣味の生活を送って来たことや、一筋縄ではいかぬ厄介な因果が付きまとってそうな予感をヒシヒシと感じた。
男性は、すぐにハグを解いてソファに座ったが、ご主人さまは顔をトマトのように真っ赤にさせたまま硬直してしまった。青リンゴ村から出てきて間もないお嬢さんには、いささか刺激が強過ぎたかもしれないな。
「ちょいと、ルシアン。その息をするように見境なく女性を口説く癖を直さないと、夜道で刺されるわよ?」
「軽い挨拶じゃないか、マダム・ベニエ(=ドーナツ婦人)」
「ご主人さま、ご主人さま。僕の声が聞こえてますか?」
肩の上に乗り、前足の肉球でペチペチと軽く頬を触ると、ご主人さまはようやく放心状態が解けた。変なたとえだけど、さっきまでは、まるで催眠魔術に掛かったかのようだったよ。
「ハッ! ごめんなさい。私ったら、ボーッとしちゃって」
「気にすることないさ。おお、そうだ。自己紹介がまだだったね」
男性は恭しく右手を胸の前に添えると、軽く会釈をしてから言い慣れたようにスラスラと述べた。
「僕の名は、ルシアン。ルシアン・レオナール。ミドルネームは、ローラン。26年前に別荘地として名高い山クラゲ町で生を受け、現在は発明家を名乗っている。数日前まで、海ブドウ町の港湾で開催されていた国際スチーム博覧会へ、後学のために見物に行っていたんだ。最先端のスチーム工学を脳裏に刻み込んで来たばかりだから、しばらくはココで研究に没頭したいと思っているが、知識は豊富だから、知恵を借りたい時はいつでも相談してくれたまえ。可愛いマドマーゼル(=お嬢さん)のお悩みなら、喜んで解決の手助けをするよ」
「はい、そこまで!」
そろそろ止めに入ろうかと思っていた矢先、ゲルハルトさまが先にレオナールさまを制止した。
「まっ、ルシアンにはよんどころない事情があって、世を忍ぶ仮住まいが必要なのよ。普段はこのガレージで実験してるか、二階のもう一つの部屋で寝てるかしてるから、邪魔に思わないでやって。頭は切れるけど、身の回りのことは何ひとつ満足にできないから、家事は頼まない方が良いわ。悪い人じゃないけど、この居候貴族とは、あまり仲良くなり過ぎないようにしなよ」
「おやおや、散々な言われ方だね。せめて高等遊民とでも言ってもらいたいところだ。――ところで、君の名は? そちらの肩に乗っている空飛び猫くんがスノウという名なのは分かっているが……」
「あっ、すみません!」
ご主人さまはナイトガウンの襟を正し、そろそろ言い慣れてきた自己紹介の定型文を述べた。
「私は、新米魔女のレベッカ・ローズ。スノウは、私の使い魔です。よろしくお願いします!」
「綺麗なお嬢さんに似合いの、素敵な名だね。こちらこそ、以後お見知り置きを」
レオナールさまが片手を差し伸べてきたので、ご主人さまがその手を取った。すると、レオナールさまはそのままソファーから立ち上がり、ご主人さまの手の甲に軽くキスをした。
ご主人さまは驚きのあまり咄嗟に手を振り解き、僕はレオナールさまの腕に飛び移り、手首に嚙みついた。今回は歯形が残らない程度の甘噛みで勘弁してやるが、次は無いと思えよ?
「やれやれ。ホント、懲りない人だこと」
このあとレオナールさまがパンとスープを平らげ、揃ってガレージを出た頃には、東の空に薄っすらと紫がかった雲がたなびいていた。




