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ブルメルン3

羽飾りのついたつばのないラシャ帽子。柔らかい皮の短靴。膝がズボンの裾と靴下の間で狭そうにしている。洗濯された清潔な下着。飾り紐のついた丈の短いチュニックの中心には、磨かれて艶を放つボタンが光る。

案内役を確保した一行は、まずアンジーの格好をどうにかすることにした。そういう訳で寄った古着屋で、購入した衣服一式に身を包んだアンジーははにかんだ笑顔を浮かべている。恥ずかしいのかしきりに袖を弄りながら、


「へ、変じゃないかな? と言っています」


だが、メリヤの通訳など要らなかった。彼女が聞きたい言葉がなんなのかを推測できない者はこの場にいない。


「変じゃないわよ。似合ってる」


そうローズが褒めると、パドルも続いて、


「ああ。そこらを歩いているどんな子供より上品に見えるぜ」


メリヤから二人の言葉を教えてもらったアンジーは嬉しそうに笑い、店から出ると彼女の手を引いて通り歩き出す。ロア達三人はそんな二人の後をついていった。


「あんたもなんか言ってやりなさいよ。気の利かない男ね。そういう奴はモテないわよ」

「馬鹿か、お前は。俺達のこの世界における影響力を考えろ。その気になれば女など使い捨てカイロのようなものよ。それなのに何の見返りもなく衣服を買い与えた事実が、この俺の紳士さを表していようが」

「わかってないわねぇ。女はちゃんと口に出してくれる男を選ぶのよ。黙って察しろなんて時代が違うのよ」

「わかってないのはお前だ、ローズ」


ロアは鼻で笑いながら、


「いつまで前の価値観を引きずっているつもりだ? この街を見てもまだわからないのか。時代どころか、世界が違うのだよ。口先だけで女を口説く男になんの需要がある。もはや俺達は自らの力で己や大切な人間の命、財産を守らねばならないのだぞ」

「そんなのわかってるわよ!」

「ならば口で女の機嫌を取れなどと言わないことだ。そういうのはな、力も金もないくせに口を出すことも渋った奴に言え。だいたいなにが『口に出してくれる男を選ぶ』だ。俺にアンジーを口説けと言っているのか?」

「違うわよ! いいじゃない、一言褒めるくらい! 別になにも減らないでしょ!」

「俺の自尊心が減る」

「ーーアホかぁ! そんな無駄なの早く減らして人並みにしなさいよ!」

「……ちゃんと体格に見合った大きさだから大丈夫だ」

「どこがよ! 身体に収まりきれなくて滲み出てるから一人ぼっちなんでしょうが!」

「………」

「………」

「………」

「……その……なんかごめん」

「……いいんだ。君を許すよ。俺は紳士だから」

「……なあ、二人とも」


声のトーンが落ちたところでパドルが口を開いた。


「異国の言葉で喧嘩してるからすげぇ目立ってるよ? なんかもうフラグ立ちまくり。俺、今なら何が起こっても驚かないわ」


周囲を見回せば、通行人が皆こちらを見ていた。街の中心に近いので結構な数だ。

ロアは溜め息をついた。


「だがパドルよ。口ではそう言っても、ここでローズがいきなり脱糞したら驚くだろう?」

「そりゃ驚くよ! ……まぁ、その前に頭を心配するけど」

「誰がそんなことするか!」

「いいからもう黙って歩こうぜ。恥ずかしいったらない」

「奇遇だな。実は俺もそう思っていた。女のヒスはスルーが一番だ」

「こ、こうつぅ!」


ガンっと音がした。ローズのローキックがロアの太腿に当たった音だった。


「……やりおったな、ローズ。口だけに留めておけばよかったものを」


ロアは凄みのある声を出し、ローズに向きなおると両手を高く掲げた。掌を立てた右手と左手を、タイミングをずらしながら時計回りにゆっくり回す。


「はんっ。なによその動きは。壁のペンキ塗り? それとも烏龍茶のCMかしら」

「あの世で後悔しろ、ローズ。師から授かったこの奥義。その貧相な身体でとくと味わうがよいわ」


ロアの口から詰まった掃除機のような音が漏れ出す。空手の息吹だ。


「コオオォォォォォ」

「上等じゃないの! あまり私を舐めないことね!」


そう言ったローズもまたファイティングポーズをとった。下半身で軽快なリズムを刻み、口から擦過音を出して、素早くジャブのデモンストレーションを行う。


「シュッシュッ!」

「コオオオオォぉぉぉ」

「シュッシュッ! シュッ! シュシュッ!」

「ゴーッ!」

「ジュゥーッ!」

「いやいやいやいや! おたくらマジで勘弁してくださいよ!」


パドルは唖然となって言った。まったく注意をきいてない。話にならないとはこのことだ。この二人、実は仲がいいのかもしれないが、それを見せるにしても場所と時を選んで欲しかった。

ーーその時、辺りが突然騒がしくなる。周りを取り囲む野次馬達がなにやら囁き合っているのだ。彼等はしきりに列の外側を気にしている。

パドルは嫌な予感がした。


「ーー衛兵っ⁉︎」


野次馬をかき分けて鎧姿の兵士達が近づいてくる。

それを見たパドルは振り返って叫んだ。


「やばい! ロア! ローズ! 兵士がーー」


しかし振り返った先に二人の姿はなかった。

瞬間、パドルの頭が真っ白になる。

兵士達がやってきたのとは反対側の野次馬の列が割れていて、そのずっと先で、立ち止まっていたメリヤとアンジーをロアが小脇に抱え、一目散に加速する。それをローズが追っていった。


「セッタイルナム!」


肩に手を置かれ、訳の分からない言葉が強い調子でかけられる。

パニックになったパドルがつい手を振り払ってしまうと、兵士はバランスを崩して野次馬の列に突っ込んだ。


「お、俺に触るなぁ!」


手を伸ばしてきた他の兵士を突き飛ばす。

兵士達が喚き声をあげて剣を抜くと辺りは騒然となった。


「す、すんません!」


パドルは釈明を諦めてロア達を追う。

それを追って兵士達も駆け出すと、進行方向にいた野次馬がわっと逃げ出す。

パドルは今ほど自分のこの肉体に感謝したことはない。みるみるうちに兵士達と距離を稼ぐ。ロア達が曲がった辺りで自分も曲がったが、姿が見えないので絶望する。

すると、少しいった辺りの路地から誰かが手招きしているのがわかった。急いでそこに辿り着き、通りを曲がると、また同じように少し先で誰かが手招きしている。

それを何度か繰り返すと、いきなり腕をとられて、横にある家の中に引き摺り込まれた。兜が奪われ、口元を手が覆う。

掴む腕は、まるで万力のようにビクともしない。焦ったパドルがスキルを使おうかと思った時、傍にローズやメリヤがいるのに気づく。口を塞いでいるのはロアだったのだ。


「シーッ」


パドルを押さえたままでロアが目配せし、皆を静かにさせると、外の通りを大勢が駆けていくのがわかった。

しばらくして、表に誰もいないのを耳を澄まして確認したロアが、


「……どうやら行ったようだな。もう安心だ」

「今のは兵士ですか? いったい何故私達を……? まさか私の身分が……⁉︎」


メリヤが不安そうに訊ねるが、ロアは首を横に振る。


「今の追っ手はパドルが連れて来たものだ」

「パドルさんが? いったいなにが原因で?」

「なにが原因か、と訊かれたならば答えねばなるまい」


じわりと言うと、パドルの暴れ方が酷くなった。

ロアは一段と力を込めて押さえつける。もはやパドルは眼球で意思表示することしかできない。そしてその向かう先はローズであった。

しかし血走った視線を向けられた彼女は顔を背ける。ローズの裏切りだ。


「あまり大きな声では言い難いのだが、先ほどパドルが突如として便意を催してな。道のど真ん中で下半身を脱ぎ、しゃがんでうんうん唸り出したのだ」

「まさか……信じられません……」


心底、驚いた様子のメリヤ。信じたくない、といった顔をパドルによこし、


「ほ、本当なんですか? さすがに嘘ですよね?」

「………」


口を塞がれているパドルは返事をできない。かわりにその頭が、ゆっくりと縦に振られた。


「そんなっ⁉︎ が、我慢はできなかったんですか?」

「人に見られながら出したかったのかもしれん」


メリヤは、理解できない、というよりは理解したくない、といった感じでパドルから一歩後ずさる。


「そんな目で見てやるな。世の中にはいろんな趣味性癖があるものなのだ。自分一人で楽しむ分にはなにをしようが自由だ」

「でも、今回の件は……」

「ああ。場所が場所だ。さすがにまずいと思い、俺とローズで止めようとした。しかしこの男は、朝食のシリアルを前にしたゴリラのようにこう言ったのだ。『もう、我慢できない!』」

「………」


なんて破壊力だ。メリヤの蔑みと哀れみの視線を受けたロアは思った。パドルという盾がなければロアですらダメージを受けていたかもしれない。それほどの眼差し。

これが、王が王として力を振るう世界で育てられた王族のカリスマだ。自分達の血を頂点と信じて生きてきた人間の瞳は狂気と紙一重である。

だがこれで良かったのだ。いつの日か、パドルが必ずやロアに感謝する日はやってくる。

なぜなら、パドルはライトプレイヤーだからだ。そしてメリヤは王女で、下手をしたらその前に『亡国の』がつくかもしれないからだ。

メリヤルートはライトプレイヤーには荷が勝ちすぎる。それがロアの見解だ。このルートは、地上で最強の国とやり合う覚悟と力がなければ無理なのだ。

パドルくらいなら、南の海に浮かぶ島で、真っ黒に日焼けした現地人の少女と結ばれるのがいいだろう。なんて羨ましい。

メリヤルートは、皇国の皇子あたりか大手ギルドのギルマスに進ませるのが得策だろうな、とロアは思った。そうすればちゃんと帝国と戦争してくれる筈だ。

パドルが静かになったので解放してやったが、彼は俯いたまま一言も話さない。

さすがにやり過ぎたか、とロア。ここは一つ飴を与えておくことにした。


「パドルよ」


肩に手を置くと、身体がビクリと跳ねる。

そんなパドルに、ロアは優しく声をかけた。


「今度、南の海に泳ぎに連れて行ってやるからな」












荷車に関して店と話をつけた後、宿を確保する段になり、そこで高級宿は止めといたほうがいいよ、とアンジーは語った。

メリヤは続けて彼女の意見を通訳する。


「貴族は数が少ないからわからないけど、その従者とか使用人がいると思う。たぶんおじさん達と出会ったら、どちらも不幸になると思うよ、ということらしいです」

「なら止めておくか」


と、ロア。あっさりと頷く。ロアも別に喧嘩を売って歩きたいわけではない。だが売られたら買う。

人生には勝てないとわかっていても戦わねばならない時があるが、それ以外は大抵勝てそうなら戦い、負けそうなら逃げるものだ。そして今のロアが逃げなければならない状況はそうそうあるものではなかった。なので喧嘩を避けるには近づかないのが一番だ。我慢できないくらいその宿に泊まりたいのなら話は別だが。


「それによく考えたら、飯も島でヘラクレスが作る料理より美味いものが出てくるとは思えないな。これはアテが外れたか」


ヘラクレスの作る料理は、地上の一般的な王侯貴族の食べるものと比べてもひけはとらない。これは王族であるメリヤのお墨付きである。この街の食堂が、王族が食べているよりいい物を提供できるならともかく、そうでないなら無理をして拘る必要はないだろう。


「なら、部屋が綺麗で広く、サービスが行き届いており、きちんと空室があって他の宿泊客が不愉快でない宿をアンジーが選んでくれ。金は気にしなくていいぞ」


しかしアンジーは実際に宿に泊まったことがなかった。彼女にわかるのは出入りする客の傾向、家畜の餌にされる残飯の中身、彷徨く孤児への主人の対応などだ。

アンジーが良さげに思う宿を幾つかあげたので、その中から《老竜たちの挽歌亭》というところに行ってみることにした。理由は建物が一番大きいらしいからだ。


「朝から歩き通しだし、昼ごはん食べてないからもうお腹ぺこぺこよ」


ローズがお腹に手をやってそう言い、責めるような眼差しでロアを見上げる。


「なぜ俺を見る」

「あんたが無計画だからでしょ!」

「巫山戯たことを言うな。だいたい俺やアンマンパンがすぐに行動に移したのはお前達の生活のためなのだぞ。それともお前は、俺が島で複数人を養う準備をしていなかったと責めるつもりか?」

「そ、それを言われると弱いんだけど……」

「それに無計画と言うならお前だろう。なんだその身体は」

「な、なによ? 別にちゃんとした身体でしょ。顔も美形にしてあるし……。結構時間かけたんだからね」


ローズは視線から身体を逃すようにしながら答えたが、ロアは進化の方向性を間違えた虫を眺めるように見たまま、


「胸といい腹といい肉が少な過ぎる。お前は異世界に転移する時のことを考え、体重を百キロ確保しておくべきだったのだ。無計画な奴め」

「無茶言うな、どアホ!」


叫んだローズはチラ、と背後を気にした。今に始まったことではない。さっきから何度も行なっている動作だった。

一番後ろはパドルが歩いている。兜は脇に抱えている。肩を落としてゆらゆらと歩く姿は、獲物を見つけられないゾンビのようだ。


「いったい何をそんなに落ち込んでいるんだ、パドル」


ローズの視線があまりにも鬱陶しかったため、ロアは声をかけた。


「もしかして泳げないのか? それなら心配いらないぞ。現地の女性に教わればいい話だからな」

「………」


なんの反応も返さないパドルに、ロアは処置なし、といったポーズをローズに送るが、返ってきたのは怖い顔だった。仕方ないので再度声をかける。


「いったい何をそんなに落ち込んでいるんだ、パドル。……もしかして泳げないのか? それなら心配いらないぞ。現地の女性に教わればいい話だからな」

「だああああ! あんたはなんで同じ台詞を繰り返してるのよ! もうちょっとあるでしょ⁉︎ もっとこう……なんか気の利いた言葉が! というか台詞の中身くらい変えろ!」

「わかってないな、ローズ」


困ったように眉を下げたロアは子供を教え諭すように、


「こういう時に重要なのは声をかけたという事実そのものなんだぞ。そうすることによって、声をかけられた方は『ーーああ、僕にはまだ、帰れるところが残ってるんだ……。こんなに嬉しい……ことはない……』という感じになるんだ。台詞の中身などどうでもいい」

「いいわけあるかボケ! さっさとどうにかしなさいよ! あんたのせいでしょうが!」

「確かにそう認めるのもやぶさかではないが……。まさかメリヤに誤解されただけでこんなに落ち込むとは俺にも予想外でな」

「まあ……メリヤは美少女だからね。王女様だし」

「荒療治になるが、ここは本人に頼むか。一発打たせて元気を注入してもらおう」

「いや、マジで止めときなさいよ。トドメになりかねないから」


どうしたものかと頭を悩ませつつ、メリヤとアンジーの背中を追っていると、唐突に二人が立ち止まった。こちらを見て言う。


「着きましたよ、皆さん。ここが《老竜の挽歌亭》だそうです」

「ほう」


目の前に三階建ての石造りの建物がある。一階は大きな格子のはまった鎧戸が開放されており、二階と三階は小さなガラス窓が規則正しく並んでいる。石と石の隙間は漆喰で埋めてあり、ほじくると欠けらがぽろぽろとこぼれ落ちた。


「なにやってんの、あんたは! 崩れてきたらどうするの!」

「これから世話になる宿だ。強度を調べるのはおかしなことではない」

「あんたの頭と同じくらいおかしいわよ!」


いちいちうるさい女である。ムッとしたロアはほじった欠けらを指で弾く。

それは、ローズの髪の間にすっと隠れて見えなくなった。

振り返った女のあまりの形相に、ロアは防御を固める。

唇を怒りで戦慄かせたローズが、罵倒しようと口を開けーー


「ーーぶっ殺すぞオラァ!」


突如響いた野太い声に、さしものロアもぎょっとなった。まさか、とローズを凝視するも、彼女は首をぷるぷる振って自分じゃないと否定する。

湿った音がして、宿のスウィングドアが荒々しく外に開き、男が背中から転がり出てくる。

染みの浮いたシャツ、カビた皮のズボン、鉄板をはったブーツと手袋、腰には短剣、という装いの男だ。もじゃもじゃとした口周りの髭に食べ物のカスがついている。

それらを一瞬で見取った女三人はロアの身体を盾にした。

その男に続いて、もう一人宿から出てくる。似たような格好だが、最初の男より身なりは清潔そうに見える。

二人目の男は、地面に転がっている髭面に素早く馬乗りになると、膝で相手の手を押さえ、 顔面を殴り始めた。

髭面はほんの数発でまともに反応を返せなくなった。口を開こうとする度に殴られ、口と鼻から恐ろしい量の血が流れてくる。歯が何本も飛び散り、終いには眼窩からも血を流す。

髭面が動かなくなってからも殴るのをやめないでいると、そのうち身体が痙攣を始めた。死の兆候だ。

荒い息を吐く男は、そうなってやっと殴るのを止め、立ち上がった。髭面の身体を通りの隅に寄せると、ロア達に一瞥をくれて宿の中に戻っていく。


「……別の宿がいいと思うわ」


ローズが主張すると青い顔をしたメリヤも賛成した。

しかしロアは首を横に降る。


「ローズ、お前はもう少しよく考えるべきだぞ。この宿ほど俺達向けな場所はあるまい」

「なんでよ。今の見たでしょ? 絶対揉め事になるに決まってるじゃない。というかあんな凶悪犯罪者みたいな奴と同じ宿なんて無理すぎるし」

「揉め事にはならないさ。喧嘩にはなるかもしれんがな、それだけだ。殴って気持ちよく終われる。それを、さっきの男が教えてくれたではないか」

「喧嘩になるくらいなら別の場所にするっていうからここにきたのに……」

「正確には違う。高級宿をやめたのは喧嘩自体が嫌だったからではない。喧嘩した後が面倒だからだ。だがここでは違う。さっきの男を見ただろう。喧嘩相手を殺して堂々と戻っていった。つまりこの宿では、正当な理由があれば後のことを気にせず相手を叩きのめせるということだ。それに、そもそもお前は筋力値は上限一杯の筈。いったいなにを怖がることがある。さっきの奴など腹パン一発で脱糞する」

「それとこれとは話が別なのよ!」

「ならそれでどこへ行く? 俺達は貴族関係者を避けてここへきた。ここにいるのは一般人なんだぞ。わざわざ選んで治安の悪い宿にきたわけではない。ここが駄目なら後は、貴族も一般人もいない宿か? 犯罪者御用達の宿でシラミの湧いたベッドでも構わないのなら好きにするがいい」

「でも探せばある筈よ!」

「そうだな。俺達はアンジーという案内人を探し、彼女に希望を述べてここに連れてきてもらった。いい加減頭を切り替えろ、ローズ。ここはお前が生まれ育った国じゃない。ーー見ろ」


ロアが指差したのは髭面のほうだ。そこでは今まさに、どこからともなく集まった男達が衣服を剥いでいる真っ最中だった。


「ここではこれが普通の光景に違いない」

「あんたの願望入ってんでしょうがそれ!」

「そう喚くな、ローズ。また兵士がやってきてしまうぞ」

「それがどうしたってのよ」


ローズはふん、と鼻を鳴らした。


「ねえ、話してるだけでなんで怯える必要があるの? 次は逃げたいならあんただけで逃げるのね」

「別にさっきのは逃げたわけではない。買い物を急いだらああなったのだ。だいたいお前も走っていただろうが。涎を撒き散らしながら」

「はぁ⁉︎ ならあんたはおしっこチビってたじゃない!」

「ーーもう止めてくれ!」


ヒートアップする貶し合いに一喝いれたのはパドルだった。彼は焦燥に満ちた表情をしながら、


「いい加減にしてくれ! もうこの宿でいいから早く中に入ろう! ーー兵士が来る前に」

「パドル、あんた……」

「お前、声が……喋れるようになったのか……⁉︎」


ロアの声には喜色が滲んでいる。


「ちょうど今、声を失ったお前のために、仲間内での会話に手話を取り入れるかローズと話し合っていたところだったんだぞ」

「あんたね……」

「……それはありがとう。さ、早く中に入ろう」


軽く受け流したパドルは颯爽とドアの前に立った。


「いや、本当にそこにするの? 私は止めといたほうがいいと思うんだけど」

「ローズよ」


ロアはなおも反対するローズの肩に手を置き、首を振った。


「パドルがそう望むのだ。ならばそれを叶えてやるのが仲間の務め。正直俺も少々危険ではないかと思ってはいるのだがな……。まぁ、何か起きてもフォローはするから大丈夫だろう。ただ一つだけ、俺がそのような懸念を抱いていたということだけは覚えておいてくれ。宿の中で何かが起きた時、そのことを思い出してくれるだけで、救われる者が一人は出るのだから」

「……あんたがこの世界のお偉いさんと話し合いをする時は絶対私を呼ばないでね」


ロアが入り口の前に立つと、既にパドルは入った後らしく、スウィングドアがギィギィと軋みをあげている。

今ここでロア達が別の宿を探して移動したら、先に入ったパドルはどうなってしまうのだろうか……。

ーーそれは、とても興味深い考察である。


「もう! ほんとにしょうがないわね! どいつも人の話を聞かないんだから!」


ロアが考え事をしていると、ローズが先に入ってしまう。


「……やれやれだな。お前達、俺の側を離れるなよ」


真面目な声になったロアは入り口で佇んでいるメリヤとアンジーの二人にそう声をかけると、自分もドアを押して中に身体を滑り込ませた。

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