豚肩ロースと茸のワイン煮込み
チラチラと雪が舞う。
右肩に通勤用の大きなバッグをかけ、両手には食材のたくさん入ったレジ袋を持つ。手袋をはめているというのにかじかむ指先。口元まで隠すように巻いたカシミヤのストールのお陰で首元は暖かいけれど、覆いきれない頬や耳は凍えるように冷たい。
寒いのは嫌だけど、ピンと張り詰めたような冬の夜の空気は嫌いじゃない。
時折吹く風が、体感温度を下げる。
少しでも寒空の下での滞在時間を短くするため、足早に家路を急ぐ。足先もどんどん冷えて徐々に感覚がなくなってしまう。
地面に到達した瞬間、溶けて無くなる雪。積もらないとわかっていても、パンプスを履いて出勤した事を少し後悔した。
いつもならば、駅で待ち合わせをして一緒に帰宅するはずの春ちゃん。だけれど彼は出張中。今夜は私ひとりきり。
冷え込んだ夜にひとりきりで過ごすなんて言ったら物悲しく聞こえるけれど。
私は、ワクワクしている。
だって、明日はバレンタインデーなんだから。しかも、結婚して迎える初めてのバレンタインデー。
明日の夕方帰って来る彼の為に、美味しいご飯とチョコレートを準備しなくちゃ。
彼は本当に美味しそうにゴハンを食べる。幸せそうな顔して食べる姿を見ているだけで、こちらまで幸せな気分になっちゃうくらい。
彼のそんな姿を思い浮かべただけで、顔がほころぶんだから、ワクワクせずにはいられない。
せっかくだから、手間暇かけたもの、それに寒いのだから、じっくり煮込んだ熱々のお料理にしようと思って。
明日のメインは、豚肩ロースと茸のワイン煮込み。
このお料理、何を隠そう牛肉で作ればビーフシチュー。というか、ビーフシチューのレシピを元に、私の好みと作りやすい手順にアレンジしたもの。明日はバレンタインだからスペシャルバージョンにしようと思っている。
以前、丁度良いお肉が見つからなくて、仕方なく豚の肩ロースのブロックで作ったのがきっかけだった。けれど今では、もっぱら豚肉でばかり作っている。
牛よりも豚の方があっさりしてるし、肩ロースだと脂と赤身のバランスも良いんだよね。
牛のバラは脂が強すぎるし、スネはあのゼラチン質というか、独特の食感がちょっと苦手。
カレー・シチュー用としてパッキングされているものも、小さくカットされすぎているし、塊で売っているのは高確率でローストビーフ用のモモ肉だ。パサついてしまってシチューには向いていない。
明日の夕食をより美味しいものにするため、早速準備開始。
豚の肩ロースの塊、約800g。これを角切りにする。大体100gずつ、つまり八等分。あまり細かくすると、煮ていくうちにほぐれてしまうし、大きな方が存在感があって好きだ。
八等分にした豚肉に、塩をすり込む。お肉の重量の2パーセント、つまり16g。それに粗挽きの胡椒も適量振って。そのまま常温でしばらく放置。
その間に、玉ねぎを半分にカットして、なるべく薄くスライスする。
あらかじめ皮をむいて冷蔵庫で冷やしておいて大正解。大玉5個分をスライスしても涙が出なかった。
玉ねぎを切るのって、結構大変。涙だけならまだしも、鼻水まで出てきちゃうし。だからってゴーグルまでしてお料理するのも微妙だし。
厚手の鍋にオイルはたっぷりと。その方がうまくできる気がする。ワインで煮込むから、ぶどう繋がりという事でグレープシードオイルを使おう。鋳物の琺瑯鍋の底に5mmになるまで注ぎ、玉ねぎを押し込むように入れて蓋をする。
弱火にかけながら、時々蓋を取って上下を返す。全体に油が回ってしんなりしてくる頃が焦げやすいので注意。それを過ぎれば、玉ねぎから水分が出てくるので、少しなら目を離しても大丈夫。玉ねぎ自身の水分でトロットロになるまで煮込むイメージ。耐熱のゴムベラで、時々蓋を取って隅々まで混ぜながら…いつも使っている鍋だと、目安にして大体1時間半くらい…かな?
玉ねぎから十分に水分が出てきたところで火をごくごく弱く……とろ火にしたら、先ほど塩をすりこんで置いていたお肉の出番。
熱したフライパンに、脂の多い部分を下にして焼き付ける。こんがりときつね色になったら返して、お肉の表面全てを焼き固めるように。こうすると煮込んだ時にお肉の旨味が逃げないっていうのは有名な話。焼き固めたら、煮込み用の鍋へ。フライパンにワインを少し注いで、フライパンに残った肉汁とか油を溶かしてこちらもお肉の入った鍋へ投入。フライパンはお肉を焼いた旨味が残ってるから。脂が凄くても気にしない。後で灰汁と一緒に取り除くので問題ない。
煮込み用の鍋もやっぱり鋳物の琺瑯の鍋が良い。圧力鍋の方がずっと短い時間で出来るんだけれど、何となく味気ない感じがする。気分的に、だけど。
ゆっくり時間をかけてコトコト煮込む事に意義がある!なんてね。
さてさて、残りのワインも全て注いで……フルボトルまるまる1本使いきり。
火をつける前に、セロリの葉と茎の硬い部分、ローリエ2枚を調理用のたこ糸でまとめて一緒に投入。蓋をせず弱火にかけて、沸騰しそうになったらこちらもごく弱いとろ火に。時々灰汁を丁寧に取りながら。アルコール臭が薄くなったら蓋をして。鍋を火にかけてからだいたい2~3時間煮込むんだけど、お肉がワインに浸かっていることが大事。
ワインのみで煮込むから、強火でグツグツやっちゃうと、アルコールに引火してしまうので注意。強火じゃなくても、倍量で作った時、蓋の隙間から漏れるアルコール濃度の高い蒸気に引火した事が何度かあるので。ここで、びっくりして蓋を開けると鍋全体が炎に包まれるけれど、落ち着いて火を止め蓋をすれば問題無し。だから蓋はアルコールが大方飛んでからにしている。念の為、ガス周りは片付けておいた方が安心。万が一引火したらシャレにならないし……。
今度は野菜。セロリはサラダ用に根元を残して、煮込みには100g使う。筋を丁寧に取って、繊維を断ち切るように薄くスライス。
人参は皮をむいてヘタを取り、こちらも100gを薄い半月切りにする。
それから具にする分の人参も一緒にカット。今スライスした分の残りともう1本を大きめに切って、面取りしておく。面取りして出た部分も半月切りにスライスした人参とセロリと一緒に置いておき、具にする分の人参は固めに蒸す。こういう時にスチーム機能付きのオーブンレンジって便利。レンジで加熱すると火の通りにムラが出てしまうからあまり好きじゃない。
お肉を焼き付けて煮込むまでの間も、野菜をカットしている間も、時々玉ねぎを混ぜるのを忘れないようにして……。
時々かき混ぜながらとろ火にかけておけば、玉ねぎが段々煮溶け、薄いクリーム色が少しずつ黄味を増していく。
推理小説片手に、時々2つの鍋のご機嫌を伺いながら1時間。
玉ねぎがペースト状一歩手前まで煮溶けて良い感じ。
こうなったら、蓋を開けて火をほんの少し火を強める。といっても弱火程度。
ここからは目を離さない。手も止めない。
鍋底をしっかりこそげる様に混ぜながら、玉ねぎを煮詰める。煮詰めて、水分がなくなってもしばらく火にかけたまま混ぜる。混ぜる。混ぜる。とにかく混ぜる。
薄いクリーム色から、黄色、そして段々褐色がかってくる玉ねぎ。どんどん艶も出て、キャラメル色に、そして飴色になるまで手を止めない。
目を離せばあっという間に焦げてしまう。焦げてしまったら、初めからやり直し。
一般的には、飴色玉ねぎって、絶えず混ぜながら炒めて作るもの。だけど、厚手の鍋でオイルを絡め、玉ねぎから出る水分で煮溶けるまで煮込み、それを煮詰めて飴色になるまで練るというやり方だと時間はかかるけれど、全体が均一に出来るし失敗も少ない。
この方法が、栄養学的とか調理理論的に良いかどうかはわからないけれど、失敗なく作る方法として私には一番合っていると思う。
玉ねぎが飴色のペースト状に仕上がったところで、鍋から取り出して。たっぷり注いだ油はまだお鍋に少し残っているから、そのまま先程スライスしたセロリと人参のスライスを投入。そしてここに水を600cc注いで、弱火にかける。野菜がゴムベラで簡単に潰せる様になるまでコトコト煮込む。
柔らかくなったら、トマトの水煮缶を1缶と飴色玉ねぎも加えて更に煮込む。トマトの水煮缶は、ダイスカットのものなら混ぜながら、ホールトマトなら潰しながら混ぜる。
蓋はしない。火を強めてトマトの酸味を飛ばす様なイメージ。弱火でコトコトだと、酸味が強くなってしまうから、ここだけは鍋底から炎がはみ出さない程度に火を強める。
グツグツいってから、10分ほど。隠し味にお味噌を小さじ1杯溶かして加える。出来れば豆味噌が良い。デミグラスソースの隠し味に八丁味噌を入れている洋食屋さんもあるらしいし、入れるとグッとコクと旨味が加わるのだ。
豆味噌がベストだけど、なかったら家にある味噌を入れてしまう。気分によって味噌を変えているから、白味噌だったり、信州味噌だったり色々だけど、ダシ入りはダメ。くどくなってしまうから。
味噌を入れたら火を止める。スプーンにすくってひとくち。野菜だけなのに結構なコクがあり美味しい。
ここまでで、お肉を煮込み始めてから2時間経過。ちょっと遅いかもしれないけれど、セロリとローリエの束を取り出して、丁寧に灰汁を取る。大まかな灰汁をレードルですくって、細かいものは厚手のキッチンペーパーとかアク取りシートに吸わせるとスッキリ。
再び蓋をして、ミステリーを読みすすめながらことこと煮込んで30分。
もうそろそろお肉も柔らかくなったかな? 様子を見れば、脂が程よく抜け、プルプルしている。うん、いい感じ。
野菜の鍋にスティックタイプのブレンダーを突っ込んで、なめらかになるまで撹拌する。これ使うと簡単に乳化してくれるし、ミキサーみたいに容器に移し替えなくてもいいから洗い物も少なくて済む。煮詰まってうまく混ざらないようなら、お肉を煮込んでいるワインをすこし加え、混ざりやすいよう水分量を調節してミキサーですり潰す。
なめらかになったらお肉を煮汁ごと加え、煮崩れないよう優しく混ぜながら火にかけて、フツフツと煮立ったら味見して。好みの塩加減に調節する。
味を整えたら人参を加え、さっと混ぜ火にかける。時々焦げないように混ぜながら20分ほど。色はまだちょっと薄いけれど、一晩寝かせると色も少し濃くなるし、味にも深みが出る。
今日はすごく寒いから、冷蔵庫じゃなくて、我が家で一番寒い部屋に置いておこう。
ここまでで本日の作業は終了。
洗い物を済ませ、いつもよりも広く感じるお風呂にゆっくりつかる。お湯に浸かりながら、翌日の手順を考えて。一通り予定を組んだらお風呂から上がる。
今夜の寒さはなかなかに厳しい。こんな時はやっぱり人肌恋しくて。
いつもよりもずっと広く感じるベッドに潜り込み、私は目を閉じた。
***
いつもと同じ時刻にアラームが鳴る。寝ぼけまなこで止め、頑張って布団から出る。シチューの鍋をキッチンに運んで、リビングのエアコンのスイッチを入れて再び布団へ。30分ほど自分の体温の残る布団で微睡んでから活動開始。
着替えて、ホットココアを飲んで取り出したのはインカのめざめ。小粒で黄色で甘味の強いホクホク系の品種のじゃがいもだ。よーく洗って、シチューに入れる8個プラス数個を蒸す。
その間に、シチューの鍋を火にかけ、時々底から優しくかき混ぜる。温まったところで鍋にチョコレートを入れる。
今日はバレンタインの特別仕様。いつもはほんの少し、隠し味程度にしか入れないチョコレートだけれど、今日はその存在に気付けるくらい入れようと思う。
カカオ95%の甘くないチョコレート。思い切って40g。昨日よりも少し色味が濃くなったとは言え、まだまだ赤っぽい茶色にダークブラウンのチョコレートが溶け出してゆく。
ゆっくり、ゆっくり、お肉が崩れないようにかき混ぜれば、鍋からほんのり立ち上る甘いチョコレートの香り。
鍋は火にかけたまま、プライパンを火にかけ、バターをひとかけら。半分溶けたところでいろいろな茸を加えて炒める。
濡らして固く絞ったキッチンペーパーで優しく拭いたマッシュルームはそのまま、しめじと舞茸は石づきをとって適当な大きさにほぐしたもの。エリンギは食べやすい大きさにカットしておいたものを手際よく炒める。
火が通ったところで、軽く塩胡椒した後、シチューの鍋へ。
茸だけじゃなくて、蒸し上がったインカのめざめもお鍋に投入。底から優しくひと混ぜしたら、とろ火でコトコト。
余分に蒸したお芋は、バターをのせて朝ごはん代わりに。蒸したてホクホクで甘いお芋とバターの組み合わせは最高。クリームチーズやアンチョビとの組み合わせも捨てがたいけれど、今日はシンプルにバターと。うん、裏切らない美味しさ!
お鍋は時々焦げ付かないよう混ぜ、10分経過したところでスプーンを取り出し、ひとすくいして口へ運ぶ。
口へ含むとしっかりチョコレートを感じる。かといって主張し過ぎるわけでもなく、良い感じ。
ここで必要があれば塩コショウで味を整えたり、煮詰まりすぎてしまったら少し水を加えるんだけど、今回はその必要はなさそうだ。
火を止めたら、ほぼ完成。直前に温めればOK。彩りのブロッコリーまたは芽キャベツも温め始めてから塩茹でしても間に合う。
煮込み料理は冷める過程で具に味がしみ込むとかしみ込まないとか。味がしみ込んだら嬉しいけれど、しみ込まなくとも、じゃがいもと茸ならソースが絡んでいるだけで美味しさは遜色ないはず。
お散歩と買い出しを兼ねて外出。
近所のベーカリーでバケットを購入し、そのままカフェスペースでバケットサンドのランチを食べる事に。キャロットラペとスモークサーモン、それからゆで卵のサンドイッチは私と春ちゃんのお気に入り。バターではなくクリームチーズがパンに塗られているのと、アクセントのディルがクセになる。
帰り道、お気に入りのパティスリーをのぞいたら、すごく美味しそうなタルトレットを見つけてしまい購入。
デザートはチョコレートとバニラ、二種類の手作りアイスクリーム。これにミックスベリーのソースを添える予定だったけれど、急遽タルトレットを加えた盛り合わせに変更する事に。
帰宅後お掃除をして、洗濯物を干して。気付けばもう四時を回っていた。
昨日買ってきたミモレットと、ブリーと、ロックフォールをカットしてお皿に並べ、枝付きレーズンも添えればチーズの盛り合わせが完成。
昨日残しておいたサラダ用のセロリは薄切りにして、軽く塩でもんで水気を絞ったら、洗って食べやすい大きさにちぎったフリルレタスの上へ散らす。その上へベビーリーフを少し乗せ、彩りにカットしたプチトマトをのせた。
マーマレードにレモン汁、塩コショウとオリーブオイルを混ぜ合わせた甘酸っぱいドレッシングも作っておく。
食器も用意したし、スパークリングワインも冷やしてある。
あとは、春ちゃんの帰りを待つだけだ。
私の勤務はシフト制。週休二日で水曜日は必ず休み。
既婚なので、お休みが合うよう月に二日は土日を休めるよう配慮してもらっている。とてもありがたい。
恵まれた職場だという事も大きいけれど、私が仕事を続けられるのは、彼の協力があってこそ。
最寄り駅にもうすぐ着くという連絡をもらい、慌てて鍋を火にかける。
彩りのブロッコリーが茹で上がる頃には、ポコポコと小さく煮える音が聞こえてきた。
食器とカトラリーを並べ、サラダやチーズの盛り合わせもテーブルへセッティング。
「麗、ただいまー!」
「春ちゃん、おかえりなさい」
日頃の感謝と、大好きを込めて。
おしまい