第六話
転入初日の最初の授業は、魔術についてだった。
「魔術とは、初代十皇家が定めた一〇〇の概念のことです」
初老の男性職員は眠気を誘う声で教本を読み上げる。
グラスティア魔術学院に入学できた生徒なら、この程度はすでに復讐するまでもない内容だろう。
ただでさえ眠いのに、こんな聞くまでもない話を聞かされ授業開始早々、俺の瞼は今にもくっつきそうになってしまっていた。
「Re:cord‐No.1から30までが初級、31から60までが中級、61から90までが上級となっています。一般に、Re:cord‐No.90までの魔術を使うことができれば、魔術師としては一流に分類されます」
俺はあくびを噛み殺し、頬杖をついて窓から外を見る。
空には快晴が広がっており、穏やかに吹く風が木々を揺らしていた。
外で昼寝したら気持ちいいだろうな――などと考えていると、頭に丸められた紙くずがぶつかり、机の上に落ちてきた。
何事だと周りを見渡せば、ユミルが手元を指して何かを訴えてきていた。どうやら紙を広げろと言いたいらしい。
訝しみながら丸められた紙を広げれば、やたらと画力のあるイラスト付きで「真面目に授業を受けなさい!」と注意とちょうだいしてしまった。
ユミルにとっても暇な授業だろうに。
と思ったが、椅子を蹴り上げられて起こされるヤシロを目撃してしまい、真面目に授業を受けることにした。休み時間になったら何をされるか怖くて仕方がない。
「これより上の段階であるRe:cord‐No.91から100の魔術。これは使える者は限られており、この学院でも五名もいないでしょう」
Re:cord‐No.91。
その単語を聞いて、痛みを感じるはずのない右腕に幻痛が走った。
「これらの魔術は発動する際には、そのナンバーと術式名称を発声しなければなりません。それは何故でしょうか。では……えー、アルク君」
「へ? あ、はい」
上の空だった俺は、今のが指名だとは気づかずぽかんとしてしまった。
慌てて起立し、師匠に教わった内容を思い出しながら言葉にしていく。
「体内に存在している魔力は通常時、不活性の状態にあります。それを活性化、循環させるために詠唱を行います」
「その通りですね。では魔術の八大相関図の説明も続けてお願いします」
げっ。マジかよ。
転入生なのに教本も開かずよそ見をしていたのが悪かったか。
「魔術には炎・水・氷・風・雷・土・光・闇の八つの系統があります。炎は水に弱いが、風には強い。このように各系統には相性の良い系統と悪い系統があり、それらを円の形に並べたものを魔術の八大相関図と呼びます」
「はい、実に模範的な回答ですね」
座りなさい、と告げられ、俺はすぐさま着席する。
これといって難しい問いではなかったけど、人前で喋るのがここまで緊張するとは思わなかった。
「補足としてはこの八代相関図の中心には、系統の干渉を受け付けない無系統があります。無系統には治癒や強化などが含まれ、扱いが難しい術式が多々あります。続いては――」
その後も教師の魔術の授業は続く。
ただし今度は指名されることなく、淡々と時間が流れていった。
魔術における魔力のコントロールや発動時の制御方法。どれをとってもこのクラスには今さらでしかないだろうが、基本は大事ということだろう。
けれど俺には関係ない。
魔導器を用いた魔術には魔力のコントロールも制御も必要としないからだ。
いつしか俺の意識は闇のなかに沈み、教師の声も遠のいていった。
◆
昼休みになった。
昼食がてら、ユミルとヤシロに学院内を案内してもらっている――はずだったのだが、俺は職員室に呼び出されて小さく縮こまるはめになっていた。
一限目の授業以降、今まで一度も起きることなく爆睡していたせいである。
四限目の担当だった若手の女性教師はどうやら学院内でも屈指の厳しさで有名らしい。腕を組みながら俺を睨み、ありがたいご高説を寄越してくる。
師匠から魔術師について学んだ俺には煩わしいだけの言葉ではあるが、しかし胸には嬉しさの欠片があった。決して美人教師に怒られて嬉しいわけではない。
師匠と面識のあるミレアやシンメイは除くとして、この学院の教師は俺を腫れ物に触るような態度で接してくるのだ。なまじ知識や経験が彼らを上回っているだけに、どう対応したらいいか迷っているのだろう。
しかし目の前の彼女は世界最強の弟子の肩書きなど関係なく、一生徒として俺を扱ってくれている。
俺はそれが嬉しかった。
……だけど、そろそろやめにしてもらってもいいでしょうか。
◆
「あーくそ……」
結局俺の願いは届くことなく、昼休みの半分も説教に費やされてしまった。
最後は彼女の腹の虫が鳴いて打ち切りといった感じで職員室を追い出されたのだ。
俺だって腹ペコだよ。
「あいつがあのフィオナ様の弟子? なんかパッとしないね」
「だな。思ったより普通っていうかさ」
「右腕怪我でもしてんのかな。てか目つき悪くね?」
とぼとぼと廊下を歩けば、すれ違う生徒たちが何事かをヒソヒソと話し合いながら通り過ぎていく。噂の転入生はどこに行っても注目の的らしい。つか最後の奴、それ気にしてんだから言うんじゃねぇよ。
立ち止まって振り返るが、もう彼らは曲がり角の向こうに消えてしまっていた。
俺は溜息を吐き出す。
「そんなんじゃ幸せが逃げていっちまうぜアルク!」
「あ?」
後ろからどっかと肩を組まれ、自分でも驚くほど低い声がこぼれた。
「うわ、すっげぇ不機嫌かよ」
ヤシロは離れると、小馬鹿にするように言ってくる。隣にはユミルもいた。
「その様子だと、スーちゃんにこっぴどく絞られたみたいね」
「スーちゃん? 誰のこと言ってるんだ?」
聞いたことのない呼び名に俺はユミルにそう聞き返す。
「スーラ先生のことよ。もしかして知らないで説教受けてたの?」
「ああ、そういえば授業の始めに自己紹介してたっけ」
スーラ・レライド。彼女は俺とは違い、カルマフォートで『国家指定魔術師』の資格を取得したプロの魔術師である。
今年からグラスティア魔術学院に赴任してきた魔術師で、若手でありながら卓越した才能と実力を備えていることから、学院内でも一目置かれているらしい。
「スーちゃんって真面目だからからかうと面白いのよね」
「教師をちゃん付けって……」
「いいのよ。みんなにそう呼ばれてるから」
「それって慕われてるって解釈でいいのか?」
堅苦しい印象ではあったが、たしかに近寄りがたい雰囲気ではなかった。
顔立ちも中性的で、両性に人気のありそうな容姿をしていた。
「でもスーちゃんってめちゃ課題出すんだよなぁ。……お? なんだあれ?」
そうこう話している間に食堂に到着した。
大勢の生徒が通うだけはあって、かなりの広さがあった。現に多くの生徒が食堂に集まっており、様々な料理の匂いが漂ってくる。
だが食べ終わったからかどうなのか、ほとんどの生徒が席から立ち上がった一箇所を取り囲むように密集していた。
ときおり、ざわざわとする群衆の声をかき消すほどの轟音が届いてくる。
俺たちは顔を見合わせると、人並みを掻き分けて一番前まで移動する。狭い空間ではないが、こうも人が多いと前に出るのも一苦労だ。進んでいる間にも何度か轟音が食堂を揺るがした。
そしてやっとの思いで前まで移動した俺は、飛び込んできた光景に我が目を疑った。
焼け焦げて使い物にならなくなった椅子やテーブル。天井や床、壁にまで焼けた跡が刻まれ、この場で魔術が行使されたのはまさに火を見るより明らかだった。先ほどの轟音は放たれた魔術が衝突する音だったのだ。
視線を傾ければ、それをやった張本人であろう男が実に不快そうに顔を歪めていた。金髪を肩口辺りで切り揃え、いかにも貴族を言わんばかりの風貌をしている。
周りには取り巻き数人がおり、嫌悪感を抱かせる笑みを貼り付けている。
そして魔術を撃ち込まれたのだろう女子生徒が、ところどころが焼き焦げ素肌を晒した制服姿で床に蹲っていた。
シノーラだ。
あの紫色の髪は、間違いない。
「あいつ……っ!!」
遅れて顔を出したユミルが憤怒の形相で歯を食い縛った。
「僕に逆らうなんて、いい度胸しているなシノーラ」
男は吐き捨てるように言うと、苦しそうに呻くシノーラの元に歩み寄っていく。
「貴様は黙って僕に従っていればいいんだよ。それがなんだ? 僕に意見するなんて、貴様は自分の立場というものを忘れているみたいだなッ!!」
「がっ……!? は、あっ……!!」
男は声を荒らげ、爪先での蹴りを叩き込んだ。胸に強烈な一撃を喰らったシノーラは閉じかけていた目を一気に見開き、息を止められ声にならないくぐもった絶叫を吐き出した。
視界が真っ赤に染まった。
眼球がおびただしい熱を帯び、今にも溶け出してしまいそうだ。
怒りで、気が狂いそうだ。
それはヤシロも同じだった。普段は穏やかな空気を獣のごとき獰猛さに変化させ、剥き出しになった犬歯は敵を噛み砕かんと軋んでいる。
「あのクソ野郎がッ!! 動けねぇ相手になんてことしやがるッ!!」
「やめなさい二人とも!」
ユミルの制止に俺もヤシロも彼女の正気を疑った。
目の前で一方的に魔術をぶつけられ、果てには蹴りつけられている奴がいるのに、どうして助けに行くのを阻むようなことをするのかと。
ほかの連中もそうだ。集まるだけ集まって、あの男がシノーラを痛めつけているのをただただ眺めている。誰ひとりとして動こうとしていない。
「なんでだお嬢! 見て見ぬフリをしろってのか!?」
いつもなら絶対に向けないような怒声をユミルに浴びせる。
それにユミルだってああいった行動を許さない性格のはずだ。たった一日の短い付き合いではあるが、少なくとも俺にはそのように見えた。
責めるように彼女を睨む。
だが、ユミルは俺たち以上に怒りに満ちた形相で男を睨んでいた。唇の端からは一筋の血が流れ、滴り落ちたそれが床に染みを点々と作り出していた。
「そこまでなってるのに、なんでだよ……ッ!!」
怒りに声を震わせながら俺は言葉を絞り出す。
対してユミルも俺を切り裂かんばかりに睨み上げてきた。
怯むつもりはない。
だが、ユミルと争っている場合ではないのだ。
俺は視線を前に戻せば、男はさらなる蹴りを加えんと予備動作をしたところだった。
「僕はオル・エヴァンスだ! 貴様のような出来損ないが指図するなッ!!」
それを聞いた瞬間。
俺のなかで爆発寸前だった感情が急激に冷めていくのを感じていた。