第三話
グラスティア魔術学院は大きく三つに分類することができる。
まず一つが学院生が通う本校舎。ほとんどの生徒はここで一日の大半を過ごし、魔術に関する座学を受講している。一学年から三学年まであり、総勢六〇〇人ほどの生徒が在籍しているらしい。
二つ目は実技棟。名前の通り魔術の実技を行う場所であり、授業や毎年行われる学年別トーナメント、自主練習などの用途で使用される。円形場の闘技場で、魔術で相手に怪我を負わせないよう威力拡散の術式が施されている。周囲には観客席が設けられており、魔術の打ち合いを一種の娯楽として見ている感を否めなかった。
三つ目は学生寮。学院の門扉を抜けて右側の一本道を辿った先にあり、男子寮と女子寮で分かれ道になっている。右に行けば薔薇。左に行けば百合である。シノーラにそう説明されたときはほんきで野宿を検討した。
ほかに本校舎の内部に細かい施設があったり、離れに旧校舎があったりと一日で回りきれないほど敷地が広い。到着したときは日が高かったのに、シノーラの案内を受けている間にすっかり夕焼けに染め上げられていた。
「いやぁ、驚きですね。もうこんな時間じゃないですか」
目の前でくるくると踊るように回るシノーラは、楽しげに弾んだ声で言う。
「やはりお友達パワーはすごいですね!」
「……あんたは友達をなんだと思ってんだよ」
シノーラとの温度差に終始振り回された俺は、すっかりグロッキーになっていた。
おざなりな俺の言葉にシノーラは形のいい眉をムッと寄せると、下から上目遣いで睨め上げてくる。
「アルクさん、せっかくなんですから楽しそうにしてくださいよ」
「楽しい楽しい、超楽しい」
「ていっ!」
「いってぇ!?」
こ、こいつ脛を爪先で蹴りやがったぞ!?
悶絶した俺は蹲り、涙目になりながらシノーラを睨み返す。
「なんですかその態度は!?」
「なんですかはこっちのセリフだよ!? いてぇだろうがッ!!」
「アルクさんが私の言葉をちゃんと聞かないのがいけないんです!」
「あんただって最初会ったとき全然聞いてなかっただろ!?」
「そのときはまだ友達ではありませんでしたから!」
「マジであんたは友達をなんだと思ってんだッ!?」
すげぇ。友達っていつの間に便利な言葉になったんだよ。
しばらく睨み合いを続けていると痛みが和らいできたので、俺は膝についた汚れを払いながら立ち上がる。
「それよりあんた、さっきの話どこまで聞いてたんだ?」
「えー? なんのことですかぁ?」
シノーラのふざけた態度に目を鋭く尖らせれば、やや怯えた様子を垣間見せた。
だが、すぐにそれを引っ込めると、俺に背を向けて爪先で地面を叩く。
「ミレアさんの顔はすごく怖かったですねぇ。おもわず漏らしそうになりました」
「……き、聞かなかったことにしてやる」
俺は二歩ほどシノーラから遠ざかる。
「あれ? ドン引きじゃないですか。あははは、ほんとうに漏らしたりしないから安心してくださいよぉ。……だからもうちょっと近くにお願いします」
泣きそうな顔で懇願するシノーラ。
ほんとうに泣かれても厄介なので元の距離に戻す。
「アルクさんも大変ですねぇ。セメルベルクから呼び出されて、禁呪の護衛をさせられるなんて」
「……まあな」
どうやら俺がオル・エヴァンスの人間だったというところは聞いていないらしい。話の流れからして察せそうな気もするが、知られたところで契約に支障はない。
それにシノーラなら知っても言わないでいてくれるだろう。
「あと、あのフィオナ・ランセルの弟子なのに魔術が使えないというのも驚きでした」
「がっかりしたか? 世界最強の弟子が出来損ないだって知って」
「どうしてですか? 魔術が使えるかどうかだけで人の価値は決まりませんから」
そう言ってシノーラはおもむろに両手を広げた。
何の真似だこいつ?
「あれ、おかしいですね。ここって感動する場面じゃないんですか?」
「しねぇよ。死ねよ」
俺が冷めた目で言ってやれば、シノーラは広げた両手で自分の体を抱きしめ、何故か恍惚とした表情を作っていた。身の危険を感じてもう一度距離を取っておく。
「聞かれちまったならしょうがねぇけど、俺はグラスティアの禁呪の魔術教典の強奪を阻止と、犯人の確保のためにここに来たんだ。表向きはミレアさんの推薦で学院に入っただけってことになってるから、間違っても口を滑らせんじゃねぇぞ?」
「えー、どうしよっかなぁ?」
「……はぁ」
こいつクソめんどくせぇ。
俺はどっと押し寄せてきた疲労に肩を落とし、前髪を掻き混ぜる。
まあこいつに話す相手もいないだろう。
「何ですかもう。誰にも言ったりしませんから安心してください。――あ、男子寮が見えてきましたよ?」
「おお、ずいぶん立派な――」
男子寮の外観に感想を述べようとしたそのときだった。
寮の敷地内と思われる場所から、上空に巨大な岩が飛んでくのが目に入った。
俺は開いていた口をそのままにシノーラを見る。
「どうしたんですか?」
「あ、あんたこそなんで平然としてんだ!? 岩だぞ? 岩が飛んでいったんだぞ!?」
「あははは! ここでは特に珍しいことではありませんよぉ」
「いやいや」
俺もセメルベルクでは魔術学院に通っていたが、あんな光景を見たことは一度もない。
これがエリート校の日常だとでも言うのだろうか。急に上手くやっていく自信がなくなってきた。
「足取りが遅くなりましたね」
「……誰があんなところに好んで行きたがるんだよ」
いったいどんな奴が岩を投げ飛ばしてるんだ。寮に行きたがらない足を無理やり動かし、頂点まで登って落下を始めた岩を見守る。
次の瞬間、落下地点にいるだろう何者かが岩を粉々に粉砕した。
俺の足が完全に停止する。……超行きたくねぇ。
しかしシノーラが楽しそうに俺の手を引き寮へと連行する。
「ふんふんふんふん!」
「ほら! もっと早くなさいノロマ!」
到着した瞬間、俺は踵を返して来た道を引き返そうとする。
「どこに行くんですか? アルクさんの目的地はそこですよぉ」
「……わかってて言ってんだろ?」
俺は半眼になってシノーラを睨める。舌をちろりと出して憎たらしく笑む。
だっておかしいだろ。半裸で腕立て伏せする男に、そいつの上に乗って鞭を片手に振り回している女の組み合わせがいたのだ。引き返したくなるのは当然だ。
やっていることは変でも、その所作から見るに彼らは貴族か身分の高い連中だろう。身なりも整っているし顔立ちも綺麗だ。
ただ、お近づきになりたいかどうかは別である。
そのうちの男のほうが俺たちのほうに振り向き、驚愕の色を浮かべた。遅れて女もこちらに気づき、男と二言三言話すと、俺たちに近づいてきた。
「ご機嫌よう。あなたが噂の転校生くんかしら? わたしはユミル=スコット・レイド。ユミルと呼んでくれて構わないわ」
彼女の家名に俺は驚きにわずかに目を剥いた。
スコット・レイドと言えばオル・エヴァンスに継ぐ名家である。俺は参加したことはほとんどなかったが、パーティーなどに必ず招待されていたと記憶している。
情熱的な真っ赤な髪がさらさらと流れ、切れ長の双眸は知的さを感じさせた。ほどよい肉付きのある胸。きゅっと締まった腰からヒップへのしなやかなラインは蠱惑的な色香に溢れている。
しかし右手にある鞭がそれらのすべてを台無しにしていた。
……それにしても、噂のだって? いったい何の噂なのだろう。
「俺はアルク・ランセル。こっちもアルク……と呼んでくれるとありがたい」
「ええ、そうさせてもらうわ。で、こっちがヤシロ。あたしの執事をしているわ」
「よろしくなアルク! ところでお前はどこの筋肉が好きなんだ?」
いきなりパンチの効いた自己紹介に俺は平静を装えている自信がなかった。
俺よりも頭ひとつ高い身長。肩幅も広く魔術師というより格闘家のほうかしっくりくる体格。短めに切り揃えられた赤に近い茶髪はツンツンに逆立っている。口元には爽やかな笑みが浮かんでおり、彼の人柄の良さを物語っていた。
ただし汗だくで半裸の格好がすべてを台無しにしていた。
「明日から学院に通うと聞いていたのだけど、もしかして今日到着したばかりなの?」
「ついさっきな。ちょっと遠くからだったんで遅れたんだ」
「たしかセメルベルクからだったわよね? 学院長から直々に推薦されるなんてすごいじゃない」
俺にしてみたらあんたらのほうが色々とすごいって話なわけだが。
とは言えないので口を噤んでおく。ユミルからは危ない気配がする。
「この学院、無駄に広かったでしょう? 一人で来たみたいだけど、ここまで迷ったりしなかったのかしら?」
「は? 一人じゃ……」
そこまで言って振り返ると、さっきまで隣にいたはずのシノーラがいなくなっていた。
「どうしたんだアルク?」
「ここまで一緒に来た奴がいたんだけど。見なかったか?」
「おれが気づいたときはお前だけだったが……お嬢はどうだ」
「残念だけどわたしもあなたが一人で来たところしか見てないわ」
「そっか……」
ユミルとヤシロの言葉を聞いて俺はもう一度振り返る。
あいつめ。案内が終わったらさっさといなくなりやがって。まさか俺にめんどくさい相手を押しつけたんじゃないだろうな。
「ところでアルク腹減ってねぇか? おれ筋トレしてて空腹なんだよ。よかったら一緒に食おうぜ!」
「あら、それはいいわね」
俺としてはお断りしたいんだが。
「でも食堂って学院のなかにしかないんじゃないのか?」
「ええ。けれど今日はどのみち休みだから食堂は開いていないわ。でもあそこの料理は絶品だから、一度とは言わず何度も足を運んでみてちょうだい」
「じゃあどこで食うんだ?」
「おれの部屋だ!」
どんと胸を叩くヤシロ。
汗飛ばしてんじゃねぇ。
「こんな見た目でもヤシロはスコット・レイドの執事なの。料理の腕前は保証するわ」
誇らしげにユミルは胸を張る。
「それにあなたのことを、もっとよく知りたいわ」
身を摺り寄せてきたユミルは、蠱惑的な流し目で俺を見上げながら舌なめずりする。それはさながら猛禽類のようだ。
やっぱりこいつは色々と危険だ。あまり深く関わらないほうがいいかもしれない。
そんなことを思っていると、ユミルは「あら?」とさらに興味を持ったように呟いた。
「わたしに抱きつかれて平気そうにしてるなんて、もしかして女の子なれしてるの? それともあなたにしたらわたしは魅力がないのかしら?」
「なんだと!? おいアルク! お嬢に魅力がねぇってどういうことだテメェ!?」
「誰もそんなこと言ってねぇよ!?」
修羅のごとき形相で胸ぐらに掴みかかってくるヤシロに叫ぶ。
「ふふっ。どうやらアルクはわたしの魅力にメロメロのようね。きっと獣のように体を弄ばれてしまうんだわ!」
「なんだと!? おいアルク! お嬢をたぶらかしてんじゃねぇ!!」
「してねぇよ!?」
ほんきで殴りかかってくるヤシロの拳をひょいひょいと躱す。
ユミルは優雅に口元を覆って肩を揺らしていた。俺たちのやりとり見て笑ってやがる。
やっぱり関わるべきではなかった。
俺は後悔しながら、怒り狂うヤシロをなだめるのだった。