第二十六話
ヒズキは剣を振るって刃にべっとりと付着した血を払うと、事切れたシュルグが手にしていた魔術教典を拾い上げようとする。――させるか。
俺は猛然とヒズキへと接近し、一切の躊躇いもなく顔面に拳を突き刺す。
しかしヒズキは言葉を発することもなく片手を持ち上げて外側に弾き、代わりに爪先を振り上げてきた。あまりにも遅滞のない動きに反応がわずかに遅れたが、弾かれた腕の勢いに逆らわず体を回転させ、その外側から彼女の後頭部に蹴りを放つ。
ヒズキはちらりとこちらに目を向けると、体勢を前に傾けてやり過ごした。蹴りが空振りに終わった俺は軸にした魔導器で強引に離れようとするが、それより早くヒズキの足払いが俺の足元を薙ぎ払った。
わずかな浮遊感の後、背中から石床に叩きつけられる。喉奥から血塊が込み上げてくる。嚥下しきれず吐き出した俺の目の前に、ヒズキの踵が迫っているのが見えた。
俺はとっさに転がって回避する。その際に魔術教典を掠め取り、跳ねるようにして後退してヒズキから距離を置く。
「あまり手を煩わせないでくれるかしら?」
「これを守るのが俺の仕事なんでな。あんたに渡すわけにはいかねぇんだよ」
俺は言いながらシノーラに魔術教典を預ける。
そのときにヒズキが不快そうに眉をひそめた。
「あなたはもっと早くに殺しておくべきだったわね。汚らわしい亜人の血の混じった人間を手駒としてでもオル・エヴァンスと扱うべきではなかったわ」
「……ッ、」
シノーラが苦痛に顔を歪めた。
俺は舌打ちをこぼしてヒズキを睨める。
「亜人を毛嫌いしてるのなんてオル・エヴァンスくらいのもんだぜ? いつまでも前時代的な考えしてんじゃねぇよ」
「どうしてかしら。十皇家はそもそも邪神を滅ぼし、妖魔を駆逐するために生まれた魔術師の家系なのよ? 知性を持ち、わたしたちと同じように生活していることこそがおかしいのよ。汚らわしい亜人は排除すべきだわ」
「だから前時代的だって言ってんだよ」
俺はそう吐き捨て、右腕を前に突き出して構える。
「だけどまさかあんたが魔術教典の強奪に関わってるとはな。オル・エヴァンスも地に落ちたもんだ」
「わたしをそんな下賎な連中と一緒にしないでくれるかしら? わたしはただ魔術教典が欲しかっただけよ。でなければ、シュルグのような愚かな男をいつまでもオル・エヴァンスにいさせるわけがないでしょう?」
「……最初からシュルグの行動には気づいてて泳がせてたのか?」
「シュルグがわたしに対して負の感情を抱いていたのはとっくに気づいていたわ。でも彼がわたしを上回るには禁呪に頼るしかない。だからずっと行動を監視させていたのよ」
「監視だと?」
「ええ。あの男に本心から協力していたオル・エヴァンスなんて一人もいないわ。愚かなことにシュルグは最期まで気づかなかったみたいだけれど」
それに、とヒズキはシノーラの持つ大鎌を指差す。
「ほんとうにその魔導器がシビルウォート製の魔導器だと思っているのかしら?」
俺はおもわずゴールドフレームの魔導器を見る。
「いいえ、そもそも魔術教典の強奪者たちが、シュルグのような浅慮な男に協力を申し出ると思うの?」
「……どういうことだよ」
俺は体が強ばっていくのを感じた。
ヒズキは子供を見守る親のような慈愛に満ちた微笑みを作る。
「魔術教典の強奪者たちがグラスティアの地を訪れたのはかなり前よ。わたしに魔術教典を持ってくるように言い寄ってきたのよ。断るようなら殺すと言われたから――不快になって逆に殺してしまったわ」
「なっ――」
俺は驚きを隠しきれずに声を上げてしまう。
俺がグラスティアに帰ってきたのは魔術教典の強奪者の確保、そしてオル・エヴァンスの協力者から魔術教典を守るためだ。ヒズキの話が事実ならば、最初からこの依頼は成立しなかったことになる。
そればかりか、ここに俺を呼び寄せたミレアもそれを知らなかったことになる。
何せミレアはオル・エヴァンスから申請を受けて、魔術教典を護衛するのに見合った人間として俺をグラスティアに――、
「おいあんた、まさか!」
俺は思い至った最悪の展開に声を荒らげた。
もし俺の想像が正しいのなら、今回の騒動はすべて――。
「あら、さすがに気づいたかしら? ――そうよ、これらはすべて、わたしが魔術教典を手に入れるために仕組んだのよ」
それを聞いた瞬間、俺の頭が怒りで真っ白になった。
「シュルグはわたしを殺すために禁呪を必要としていた。だからわたしの部下に魔術教典の強奪者のフリをさせて近づかせたのよ。その魔導器はそれなりの名工が作ったものだけれど、禁呪を扱うなんて到底できないわ。おかしいと思わなかったの? すでに二つの魔術教典が奪われたのに、カードリッジとして装填されていないことに」
それはたしかに疑問に感じていた。シノーラが使わなかっただけかとも思ったが、受け取ったカードリッジに禁呪はなかった。
だが、それがシビルウォート製の魔導器でなかったのなら納得がいく。
「シュルグは一片の疑いもなくその魔導器を受け取ったわ。見ていて滑稽だったわ。禁呪なんて扱えるわけがないのに、これでわたしに勝てると高揚していたのだから」
「あんたは……!」
「次はミレア学院長に根回しをしたわ。彼女ほどの魔術師であれば、オル・エヴァンスしか立ち入れないこの空間に入れて、魔術教典を守護する結界を破れる人間を寄越してくれると踏んでね。まさかあなたが来るとは思いもしなかったけれど、結果的に最高の仕上がりとなってくれたわ」
怒りで我を忘れそうだ。
ヒズキは自分が魔術教典を手に入れるためだけに、シュルグだけでなくミレア、さらにここに送られてくる人間まで利用しようとしていたのだ。
まさかここまで性根が腐ってるとは思いもしなかった。
「ふざけんじゃねぇよ。ミレアさんまでてめぇのくだらねぇ目的に巻き込みやがってッ」
「使えるものはなんでも使うわ。たとえ世界最高峰の魔術師であろうと、利用されているとも気づけないのだからたかが知れているわ」
「この……!」
視界が真っ赤に染まっていく。
俺の大切な人をここまでコケにされて黙ってなどいられなかった。
「――そして思わなかったの? その魔導器が偽物ならば、本物のシビルウォート製の魔導器が、魔術教典の強奪者が持っていた二つの禁呪がどこにあるのか」
ヒズキはそう言って右手に持っていた白銀の剣の切っ先で石床を引っ掻く。
剣の柄部分にはカードリッジを装填する回転式弾倉が備わっており、刀身の腹には排出口らしき開閉式の蓋がある。紛れもない。あれは魔導器だ。
俺は戦慄する。声も出ないほど息が上がって喉が干からびた。
「光栄に思いなさい。あなたたちのような『欠陥品』と出来損ないを、禁呪で葬ってあげるのだから」
俺はすでに行動を起こしていた。
シノーラを肩に担ぎ上げ、放出系の魔術を連続で発動させてヒズキから逃げる。何もあの女と戦う必要はない。ヒズキの言葉通りなら魔術教典の強奪者はもういない。魔術教典を手に入れようとしていたシュルグも奴に殺された。この依頼自体が仕組まれたものである以上、俺が魔術教典を守る理由なんてどこにもなかった。
だからわざわざ戦う必要もない。
カードリッジにしているのなら禁呪は一発ずつしか使えないが、逆に言えば二回も禁呪を発動させられるのだ。戦えばまずシノーラは生き残れない。
俺は振り返ってヒズキの様子を窺う。
――いない?
「どこを見ているの?」
「ぐっ!?」
何の前触れもなく前方に出現したヒズキ。剣が振るわれ、急ブレーキをかけて真横に飛ぶも刃の尖端が顔の右側を縦一線に浅く切り裂いた。血飛沫が舞い、ヒズキを濡らす。
――こいつどうやって追いつきやがった……!?
魔術を発動した気配はなかった。今の俺は生身では追いつけない速度に達していた。それなのにあっさりと追い越し、タイミングを合わせて一閃まで喰らわせてきた。
俺は石床に手と膝をつき、剣の握りをたしかめるヒズキを睨む。
「不思議そうね。そこまでわたしがあなたに追いつけたのがおかしいかしら?」
「…………」
心底愉快そうにヒズキは口元に手をやって肩を震わせる。
「わたしの最近の楽しみは、新しい魔術を作り出すことよ。これはその試作品を試しているだけ。術式名はまだないけれど、対象を一定の空間内に閉じ込めることができるわ。そして術者はその空間内であれば、好きな位置に瞬時に移動ができる。――そうね、空間転移術式とでも呼んでおきましょうか」
「……この化物め」
言わずにはいられない。新しく魔術を作り出すなど師匠からも聞いたことがない。
これまで何人もの魔術師が新しい魔術を作り出そうと研究を重ねたが、魔力が暴走して命を落としたり、構築した術式に肉体が耐えられず廃人となったりと、その末路はどれも悲惨なものだった。
しかしヒズキは、これまで積み上げてきた魔術師たちの研究成果を覆し、楽しみとまで言ってのける始末だ。これを化物と言わずして何と言おう。
「足掻くのなら、せいぜい足掻きなさい。ちょうど新しい魔術を試したかったのよ」
「……いいぜ。やってやるよ」
俺はシノーラを降ろして魔力を迸らせる。
ヒズキから仕掛けてくるのなら容赦はしないと明言してある。
禁呪だろうが新しい魔術だろうが、その悉くを握り潰して――、
「あんたを殺してやる」
――俺は修羅になる。
右腕と左脚に俺の魔力を過剰に送り込む。
みしりと音がしてシルバーフレームの魔導器に亀裂が走る。ぱらぱらと銀色の表面が細かな欠片となって剥落し、やがてブラックフレームの右腕が顔を覗かせた。左脚も真っ黒で異様な不気味さを纏っている。
調子をたしかめるために指を一本ずつ折り畳み、屈伸をして膝を伸縮させる。オフにしていた痛覚も強制的にオンにされ、生身と同じだけの触覚が戻ってきた。
「見事な曲芸ね。それで? 魔導器が黒くなったところで何ができるのかしら?」
「今から見せてやるから黙ってろよ」
俺は体勢低く飛び出すと足裏から魔力を放出。一歩ずつ体を加速させ、ついには疾走ではなく宙を飛んでヒズキに突進する。
「……大口を叩いておきながらそれ? わたしをあまりがっかりさせないでちょうだい。Re:cord‐No.95『Trident judge』」
無系統最上級魔術『トライデントジャッジ』。上空に断罪の三又の矛が出現した。すると急加速していた俺の体が強烈な引力に引き摺られ、そのまま上空に連れて行かれる。この魔術は術者以外の魔力を持つ人間を無差別に引き寄せ、すべての魔力を吸い取ってから自爆する術式だ。
発動を許せば最上級魔術をぶつけて相殺させる以外、生き残るすべのない極悪な魔術だ。装填されたカードリッジに最上級魔術はない。さっきまでのシルバーフレームの状態であったなら、この一撃で終わりだっただろう。
「――邪魔だ」
俺は断罪の矛にブラックフレームの右拳をぶつける。
たったそれだけで『トライデントジャッジ』はぼろぼろと崩れ、塵となって消え去った。
引力から解放された俺は再加速。左脚で方向を逆転させ、猛烈な勢いのまま地上で立ち尽くすヒズキに拳撃を放った。一拍反応の遅れたヒズキだったが、詠唱内容が聞き取れないほど高速で術式を構築。『ウォールシールド』を展開させた。
相変わらずヒズキの詠唱速度には舌を巻くしかない。魔術師同士の戦いではどちらが先に魔術を発動させるかが戦況を分けることになる。素早くより多く魔術を発動させれば、それだけ相手は後手に回ることにななり、最終的には対処が間に合わなくなる。
だが、俺の前では発動速度も強力な魔術も無意味だ。
俺の前に現れた六重の石盾はその意味を果たすことなく消え去り、無防備に構えるヒズキを領域内に捕捉した。
「……ッ!!」
ヒズキの姿が一瞬にして消え失せた。空間転移を使って移動したのだ。
背後に出現したヒズキは、魔術が通らないと判断するや剣で俺の首を撥ねんとしてくる。振り向きざまに裏拳で応戦すると、衝撃波で空間が軋み、俺とヒズキはお互いに靴底を激しく摩擦させながらノックバックした。
腕自体は魔導器なので斬れたりすることはないが、痛覚が正常に働いているため斬られたのに近い激痛が右腕に走っている。左脚も素足で摩擦したせいで火傷してもおかしくないほどの熱を帯びていた。
「わたしの魔術を殴っただけで消滅させるなんて、いったい何をしたのかしら?」
衝撃で硬直したヒズキが問いかけてくる。
「あんたはオル・エヴァンスの禁呪がどういう術式か知ってるか?」
「なんですって?」
「とぼけなくていいんだぜ。オル・エヴァンスの禁呪を欲するあんたが、術式内容を知らないはずがない」
ようやく手足の痛みが和らいできた。
掌を開閉させて腕を回す。体に異常の兆候はない。まだ大丈夫だ。
「魔力を含んだありとあらゆるモノを無に帰し、消滅させる『虚無』の禁呪」
そう言って俺は周囲に向けて魔力を放出。空間転移術式の境界面なのか二〇メートルほど先で拒絶するように燐光が激しく散った。俺は構わず魔力を放出し続ける。
「だがこの禁呪は生み出したのではなく、初代十皇家――エルク=オル・エヴァンスの体質だったと言われている」
「そうね。だから何だというの? そんなこと誰にもたしかめられることではないわ」
「いいや。俺自身がその証明だ」
ヒズキが構築した世界に亀裂が走る。それは蜘蛛の巣のように広がっていき、地面の下から突き上げられたような振動が空間の崩壊を知らせていた。
「俺が魔術を使えなかったのは、俺がエルク=オル・エヴァンスと同じ体質だったからだ」
ついに空間転移術式が崩壊して虹色に輝く羽根が俺たちに降り注いだ。
そこでヒズキが初めて表情を崩した。
「世界最強フィオナ・ランセルの弟子にしてレヴィアウォート=ヴァレン・タイン制作No.4『虚無使い』アルク・ランセル」
俺は拳を握り、改めて名乗りを上げる。
「ここですべてを終わらせる」




