プロローグ
八年前のあの日、アルク=オル・エヴァンスの人生は終わりを告げた。
◆
カルマフォート王国には十皇家と呼ばれる家がある。かつて邪神から滅亡の危機を救った一〇の魔術師の末裔たちをそう呼称する。
その十皇家の一つであるオル・エヴァンス家に俺は生まれた。
十皇家に生まれた人間は揃って魔術師として他者の追随を許さない素質と才能を秘めている。俺もオル・エヴァンス家が始まって以来もっとも膨大な魔力を持っており、周囲から大きな期待が寄せられていた。
だがほどなくして、その期待は侮蔑へと変わった。
俺は魔術が使えなかったのだ。
それを境に周りの態度は一転した。
俺を溺愛していた父や母は、俺を無視して姉と双子の弟につきっきりになった。うるさいほど俺にべったりだった姉は、弟に愛情を注ぐようになった。
専属だったメイドや家の使用人たちも俺が魔術を使えないと知った途端、あからさまにおざなりに接するようになった。
それもそうだろう。彼らが見ていたのはあくまでも『魔術師として才能に溢れたアルク=オル・エヴァンス』であり、魔術の使えない俺に価値などなかったのだ。
けれど弟のヒビキだけは違った。魔術の才能がないとわかっても態度を変えることなく、俺を兄として慕ってくれた。
どれだけ冷遇されても、誰か一人だけでも味方がいてくれる。それだけが救いだった。
だけど、それさえも長くは続かなかった。
◆
炎の海のなか、俺は息も切れ切れに逃げる。
「探せ! あいつを生きて逃がすな!」
背後で多くの怒声と大勢の魔術師が近づいてくる足音が聞こえる。
俺を殺すために放たれた刺客だ。
――魔術の使えない『欠陥品』は我がオル・エヴァンス家には必要ない。
そう告げられ、俺は家を追放された。荷物をまとめることさえさせてもらえず、最後の温情のつもりか、はした金の入った袋を投げつけられ、何かを言う暇さえ与えられないまま家から追い出された。
しかし混乱はなかった。いつかはこうなると子供ながらに理解していたのだろう。
こうして何もかもを失い、途方もないままあちこちを彷徨い続けた。帰る家もなく、頼るあてはないわけではないが、彼女の家族に迷惑をかけてしまうのは目に見えている。
そんなときだった。
大勢の魔術師が俺の前に現れた。そのなかには、俺の専属だったメイドのジアもいる。
「さっきぶりですね、アルク様」
ジアは一歩前に踏み出す。
俺を見る目には感情を窺えない。以前も彼女から感情は読み取れなかったが、少なくとも虫けらを見るような目はしていなかったのはたしかだ。
後ろの魔術師たちも同じだ。全員が俺に悪意の篭った視線を向けている。
俺は無意識のうちに後じさりする。
「申しわけございませんが、お前にはこの場で死んでもらいます。恨むなら無能な自身を恨んでください」
スっと右手が持ち上がる。
俺はジアの言葉を理解するより早く、踵を返してその場から逃げ出していた。
「逃すと思っているのですか。――Re:cord‐No.39『Hell Blast』」
背後から炎の暴風が迫ってくる。視界が一気に赤く染まり、肌を焦がす灼熱が地面が抉りながら襲いかかってくる。
炎系統中級魔術『ヘルブラスト』。軌道は一直線。だが、無抵抗の人間ひとりを跡形もなく消し去るには十分すぎる威力を秘めている。
そこでようやく彼女たちが、ほんきで俺を殺そうとしていることを理解した。
とっさに真横に転がれば、直後に炎の暴風が俺のいた場所を通過していった。抉られた地面は熱を帯びてマグマのように煮え立ち、白い煙が夜空に立ち上っていく。
「よく躱しましたね。すばしっこさだけは褒めてあげましょう」
「な、なんで、こんなこと……」
「お前が『欠陥品』だからではないですか? 十皇家でも魔術の扱いにもっとも長けているオル・エヴァンスにおいて、魔術を使えない人間がいては家名に傷がつく。それがご主人様のお考えです。だからお前を殺すのです」
淡々と告げられる言葉に、俺のなかで何かがキレた。
「ふざ……けんじゃねぇ! 俺だってこうなりたくてなったわけじゃねぇよ! 勝手に期待してたくせに、いざ期待が外れたからってこれか!? 何が名家だ。汚点の一つも許容できねぇくせに威張ってんじゃねぇ!!」
「……言いたいことはそれだけですか?」
眉間を揉みほぐしながら、ジアは嘆息する。
「子供であるお前にはわからないのです。十皇家はすべての魔術師の模範とならなければなりません。そのためには汚点の一つでさえ残すわけにはいかないのですよ」
手を持ち上げたジアに続き、今度は全員が詠唱を始めた。
そのすべてが中級以上の魔術だ。
「死ね」
短い言葉と同時に、一斉に魔術が放たれた。
◆
足がもつれ、俺は地面に倒れ込んだ。
激しく呼吸を繰り返した肺は焼けるような痛みを発し、右腕は肘から先がちぎれおびただしい量の出血が俺の下に水溜まりを作っていた。
俺はここで死ぬ。
彼女らに殺される。
朦朧とする意識で、それだけがはっきりとしていた。
放たれた魔術によって森が火の海になっているにも関わらず騒ぎになっていないのは、ここら一帯に結界が張られているからだ。
もちろん騒ぎを嗅ぎつけられないのも目的だろうけど、本命は俺を確実に仕留めるため逃げ場をなくすことだろう。俺が魔術を使えないとわかっているはずなのにこの徹底ぶり。よほど『欠陥品』がいたことを隠蔽したいらしい。
「ははっ……」
もう笑うしかない。
俺が何をしたって言うんだ。
ただ魔術の才能がなかったからって、殺されなきゃならないのかよ。
「お遊びはここまでにしましょうか、アルク様」
口調に苛立ちの混じったジアの声が上から降ってきた。
目だけを動かしてみれば、微塵も息を乱していないジアが俺を見下していた。
これで終わりか。体は動かない。そもそも結界が張られていたのだ。魔術の使えない俺ではどうあっても逃げられるわけがなかった。
「『欠陥品』の分際で最後の最後まで手を煩わせてくれますね。ですがそれもここまでです。何か言い残したいことがあれば聞いてあげましょう」
「……て、るぞ」
「なんですか? 聞こえるように言ってください」
「丸見えだって……言ったんだよ、この水玉が」
「――ッ!? この……ッ」
カッと顔を赤く染めたジアの爪先が俺の脇腹を捉えた。
ゴキゴキ、と骨の砕ける感触。口内に鉄の味が広がり、逆流してきた血塊を吐き出す。
「よほど死に急ぎたいようですね」
「生かすつもりなんて、ないくせに……」
振り上げられたジアの足が胸を勢いよく踏み抜いた。
今度は見られないようにするためか、片手でスカートの裾を抑えている。
顔が赤いままなのは恥ずかしさのせいか、それとも怒りのせいか。どちらにしても俺が死ぬことには変わりはなかった。
「だったらさっさと――」
不意に言葉が途切れる。
ジアは何かに気づいたようにハッとして上を見上げ、その瞬間、蜘蛛の巣のように空に罅が広がった。その罅は見る間に大きくなり、魔術師たちがその光景に釘付けになっていると、一つの影が結界を破って飛び込んできた。
「――アルクッッッ!!」
「なっ!?」
飛び込んできた影は俺を踏みつけるジアに肉薄すると、小さな体を駆使した体術で俺から引き離した。
「お前ら、アルクに何やってるんだ!!」
「ひ、ヒビキ様……」
ジアは狼狽えた様子で名前を呼んだ。
まず目についたのは俺の黒髪とは正反対の金色の髪だ。短く切り揃えられた金髪が風になぶられ揺れている。普段は温厚な顔つきを鬼のように歪め、正面を激しく睨んでいる。
双子の弟のヒビキだ。
……ヒビキだって?
なんでヒビキがここに?
「お前ら、アルクに何をやってるんだ? 答えろ」
低く紡がれたヒビキの言葉に何人かが怖気づいたように小さく悲鳴をこぼした。
鋭く吊り上がった瞳は怒りに燃え、今にも暴れ出しそうな雰囲気をまとっていた。
「こ、これはオル・エヴァンス家の決定なのです。そこにいる『欠陥品』を処分する。魔術の才能のない人間はオル・エヴァンス家には必要ないと――」
「Re:cord‐No.68『Diamond Dust』ッ!!」
絶叫するように唱えたヒビキの氷系統の上級魔術が炸裂する。
炎の海が一瞬にして氷河へと変貌した。凍りついた地面から無数の氷の槍が伸び、滑るようにして魔術師たちに殺到していく。
突然現れたヒビキに呆然としていた彼らは反応さえできず、全身を貫かれていく。
「逃げるぞアルクッ!!」
ヒビキは俺の体を持ち上げると、その場から離脱した。
◆
ヒビキは両目から大粒の涙を流しながら、失くなった俺の右腕の治療をする。
「なんで、なんでアルクが殺されなきゃいけないんだよッ。おかしいだろ!? 魔術がなんだって言うんだよ!! 僕たちは家族じゃないか!! それなのに……」
「しょうがないだろ。俺は、魔術の使えない『欠陥――」
「だからなんだって言うんだよ! クソ……クソッ!! 治れよ!!」
ヒビキの周囲には膨大な魔力の奔流が渦巻いている。並みの魔術師なら近づくだけで卒倒するほどの量だ。それを治癒魔術に注いでいる。
だけど俺の腕が治ることはない。
最上級の治癒魔術でも欠損部分を治すことはできないのだ。いくらヒビキが魔術の才能に溢れていても、こればかりは覆せない。
俺はヒビキの胸を押す。
「そこまでにしろ。俺は、もう助からねぇよ」
「そんなこと言うな! アルクはじっとしてて。絶対に助けてみせるから!」
しかしヒビキの思いに反して魔力は徐々に弱まっていく。
そして魔力の光が完全に消えた。
「なんで、だよ……何がオル・エヴァンスだよ! 何が十皇家だよッ!! こんな肩書きがあったって大切な家族の一人さえ、救えやしないじゃないかッ!!」
「だから、無駄だって言っただろ? 俺のことはいいから、ヒビキは家に戻れ」
「こんな状態のアルクを置いていけるわけないだろッ」
そう叫んでヒビキは俺を背負う。
「どこに、行くつもりなんだ……?」
「街の医者のところだ。僕が治せなくても、街に行けば何とかなるかもしれないッ」
「無理だ」
自分のことは自分が一番わかる。もう助からない。治癒魔術のおかげで止血はされたものの出血が多すぎた。
さっきから視界がどんどんと狭まってきていて、ヒビキの声もどこか遠くに感じる。
「――そいつの言うとおりよヒビキ」
「……ッ!?」
鈴の音を転がしたような透き通った声がどこからか響いた。
ヒビキが俺を背負ったまま大きく跳躍すれば、光の柱が直前までいた場所を押し潰した。
靴底を滑らせながらも上手く着地したヒビキは気丈な面持ちで上空を見上げた。だが、次の瞬間にそれは絶望へと変わった。
「ひ……ヒズキ、姉さん」
「こんなところで何をしているの、ヒビキ?」
そこには一人の少女がいた。
足元まで届きそうな黄金色の髪。魔力によって形作られた六枚三対の翼を広げる彼女の体は非常に華奢だ。けれど幼いながらに見る者すべてを魅了する魔の美しさを、彼女は備えていた。
ヒズキ=オル・エヴァンス。
俺たちの姉であり、まだ十歳ながらにオル・エヴァンス家で最強を誇る存在――絶望が目の前に立ちはだかっていた。
「背中にあるのは『欠陥品』かしら? それをどうするつもり?」
「アルクをそんなふうに言うなッ!!」
「魔術の一つも使えない人間をそう呼んではいけないのかしら?」
地面に降り立ったヒズキの背中の翼が空気に溶けるように消えていく。
緋色の瞳が俺に向けられる。かつて慈愛に満ちていたヒズキの目には落胆と侮蔑しか宿っていなかった。
「みんなしてどうしちゃったんだよ。こんなのおかしいだろ! 姉さんだってあんなにアルクのこと好きだったのにッ!!」
「……そんなこと忘れたわ。いいからそれを早く処分なさい。あなたがしないのなら――」
ヒズキが天に手を掲げた。
瞬間。
ヒビキを軽く凌駕する魔力が彼女の周囲に渦巻いた。
「わたしがこの手で裏切り者の処分をするだけよッ」
裏切り者……?
ヒズキは何のことを言ってるんだ。
「Re:cord‐No.91――」
「……ッ!? アルクしっかり掴まっててッ!!」
ヒビキは踵を返すと尋常ではない速度でヒビキから逃げる。景色が流れるように過ぎていき、あっという間にヒズキの姿が小さくなっていく。
Re:cord‐No.91――。
それは魔術師のなかでもひと握りだけが使うことを許された魔術だ。
十皇家でも使える魔術師は少ないし、使えたとしてもまともに扱える者はさらに少ない。何十年もの月日を費やして鍛錬を重ねてようやく物とできる大魔術なのだ。
だがヒズキは十歳にしてそれを手足のように扱っている。
これが彼女がオル・エヴァンス最強と称される理由だ。
大人が何人束になろうとヒズキの足元にも及ばない。同年代など論外だ。天才と呼ばれているヒビキでさえ一二もなく逃走を選ぶほどだ。
ヒズキがここに現れた時点で、わずかに見えていた救いの手は完全に潰えたのだ。
「――『Absolute Zero』」
無系統の最上級魔術。
何もかもを無に還す最強魔術の一角が俺たちに牙を剥く。
「Re:cord‐No.75――」
「だめだ。それじゃ防げない」
とっさに防御魔術を構築しようとしたヒビキの詠唱を遮る。
Re:cord‐No.91以上の魔術に対抗するにはそれ以上のナンバーでなければならない。
ヒビキがどれだけ魔術を重ねてもRe:cord‐No.91以下では壁にすらならないだろう。
だから俺のやるべき行動は、俺の唯一の味方であるヒビキを逃がすことだ。
俺はヒビキの背中を蹴り、魔術の軌道から追い出す。
「アルクッ!?」
地上に落下していくヒビキは目を見開き、呆然とした顔つきで俺を見ていた。
このまま俺と一緒だったらヒビキまで死んでしまう。魔術がすべてのオル・エヴァンス家でヒビキだけは『アルク=オル・エヴァンス』という個人を見てくれていた。
そんなヒビキを、弟を――俺のたった一人の家族を、こんなところで死なせてたまるか。
「おおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉッッッ!!」
俺の持つすべての魔力を前方に向けて放つ。
魔術は使えなくとも魔力をそのまま放出することはできるのだ。
俺の魔力はオル・エヴァンスで最強を誇るヒズキをも上回っている。相殺は無理でもせめてヒビキだけでも逃げられる時間を稼げれば――。
そして衝突する。左足が膝下から消し飛ぶ。
「ごめんね、アルク。――さようなら」
意識が葬られる前に聞いたのは、かつての優しさに満ちたヒズキの声だった。
◆
「――なんだか騒がしいと思って来てみれば。子供に対してひどいものね」
おぼろげな意識のなか、誰かの声が聞こえた。
おそらくは女性だろう。
「このへんってことはオル・エヴァンスかな。――うん」
女性は傍らにしゃがみこむと、俺に手を差し伸べながら問いかけてくる。
「君には二つの選択肢があります。もしもこの世界に絶望しているのなら、このままここで私が君を看取ってあげる。だけど、まだ生きたいと望むのなら私の手を取りなさい。私が君を誰よりも強くしてあげましょう」
――生きたい。
たった一つの思いを胸に。
俺は静かに彼女に応じた。
「よろしい。私の名前はフィオナ・ランセル。今日から君の師匠だ」
これはアルク=オル・エヴァンスが死に――。
そしてアルク・ランセルの生まれた日の記憶。