ブルゥム・ホーンB
その時がきてもいいように
いつまでも牙を持ち続ける
その山に入って、わたしはすぐに親しみを覚えた。
というのも、山の者たちから向けられる眼差しが、ことに柔和なものであったからだ。
萎びた尾を引きずって歩くわたしを見て、彼らはなんと、ぎょっと目をむいて逃げて行った。何かの間違いだと思ったのだが、そうではなかった。
次に出合った鹿の親子も、首を伸ばしてわたしを見つけるや否や、視線の絡まりをほどいでを一目散に逃げ出した。
藪の中に消えた彼らを見て、わたしがどれだけ驚き、どれほど喜んだことだろう。満々と広がった激情を伝えようにも、口下手なわたしには、伝える手段がない。
ただ、好ましいことには違いなかった。
山に住んでいるのはわたしを恐れ、いかにも迷惑そうに逃げ去ってくれる者ばかりだ。これまでのように、出合った端に腰を抜かし、蒼白になって震える者はいなかった。
わたしはそんな者ばかりと出会い、腹が空いていれば、食ってきた。
怪物、と思われていたのだろうが、怪しいことなど何もない。
歩いているだけ。それだけで、わたしを見つけた獲物が勝手に縮み上がり、同じように勝手に生を諦め、勝手に食糧に成り下がってくれる。
哀れな食料の側に歩みよる度に、憂うつに侵される。
これは断じて狩りではないし、フェアでもない。
わたしを中心にして、常に不自然な関係が築かれていた。
他の肉食獣とは違い、たとえ満腹の時でさえ、わたしの側には誰も寄ろうとしないのが証拠だ。
肉食獣として、最高の優遇を受け、それとは引き換えに。
――寂しい。
ぼんやりと思いながら、わたしは食料をむさぼったものだ。
しかし、この山では事情が一変した。
彼らはわたしを見ても、簡単には食料に成り下がらない。
逃げる。素早く危機を察知し、風に巻かれた木の葉のようにどこぞへと消えてしまう。
狩りはことごとく失敗した。
彼らの尾先を追って空を噛み、頭から木にぶつかり……。獲物がどこかに隠れてしまうと、腹ばいになってぜえ、と喘いだ。
空腹で今にも死にそうな癖に、方々の体で、自慢の銀の毛も縮れてしまっている癖に。生まれたてのように晴れやかな気分だった。
自分を包み込む世界に初めて足を踏み入れた。対等に、自然に、生きている。怪物として生まれた歪な命を、許された気がしたのだ。
その山でわたしが彼と出会うのに、多くの時間はかからなかった。
夜中に喚いている輩がいる。
「ブルロロロロウウォオオオオオオオ……ルォオオオオオオン……」
だみ声でがなり立てられれば、睡眠の質が上がり、ぐっすり眠ることができる。わけがないから、わたしは夜を破ろうとする不届き者に、それについてさり気なく伝えてやろうと思った。なるだけさり気なく脅してやる。
もちろんさり気なさの優先順位を最低にし、声の元へ向かう。
そこで、見た。
山頂付近の丘の上。月光の青味を重ねた竜胆を背後に、切り立った崖が突き出している。その突端部に立つ毛むくじゃらの生物に、わたしは目を奪われた。
正確には、彼の角に。
凛として伸びる一本角は、百本の竜胆を束ねても敵わない――青。
青色は、彼の醜悪な要素を全て含めたとしても、毛ほども美しさを失わない。おごそかに天をさしている。
なるほど。山の動物たちが、なぜわたしと対等に立ちまわれるのか、ようやくわかった。答えは目前にある。動物たちは迷惑な角付き生物のおかげで、よほど化け物慣れをしているのだ。
また、彼はこんなことも教えてくれた。
怪物は怪物を怖がらない、ということを。
わたしがしかめっ面をしていたせいだろうか。一通り鳴き終えた後に、彼が飛びかかってきた。あまりにも唐突なことで、わたしは生まれて初めてこっ酷くやられた。
逃げる。今度はわたしが。わたしが逃げているだって?
化け物が空腹以外に殺されるなんて、冗談じゃない。
あんまり腹が立ったので、わたしはあくる日から何度も彼に〝助言〟をしに行った。
お前の声は汚い、うるさい、音程が滅茶苦茶で不愉快だ、などと細かい理由を論い、遠吠えと睡眠の質の関係性について説こうとした。
頑迷な彼は聞き入れなかった。言葉が通じていないのだから当たり前だ。
構わない。わたしの目的は喧嘩することなのだから。
彼と喧嘩をするのが日課のようになってから、心なしか毛並みが良くなった気がする。
萎びていた尾にも力が入り、牙には気高い意思が宿る。毎夜の逢瀬のために爪を研ぎ――彼がわたしをオスだと思っていると知れた時に、特に役立った――力をつける。
食料に成り下がらず、恐れるどころか向かってくる相手。
完全に対等な化け物に。
わたしは出会ってしまった? いいや。
わたしはようやく、巡り会えたのだ。
それは最後まで残っていた一抹の〝寂しさ〟を、残らずかき消した。
「ブルォロロロロロォオオオオン、ブロォオオオオオオオオオ……ォオン」
途方もなくやかましい彼を、わたしはブルゥム・ホーンと名付けた。
はた迷惑な、青に呑まれた角だ。
ある日、ブルゥム・ホーンが人間に襲われた。
供え物を取りに行ったところで待ち伏せにあったのだ。
察するに、どうやら彼は麓の村でずいぶんと畏れられていたらしい。
結果的に沢山の供物が捧げられていたのだが、世間知らずの彼はそれを好意だと勘違いして、ありがたく頂戴していた。
とどのつまり今回の事件というのは、彼の無知が招いたことに過ぎない。
人間たちは優れた勇気によって、ブルゥム・ホーンに戦いを挑んだ。
人間たちは下卑た蛮勇をふるい、無垢なブルゥム・ホーンを傷つけた。
わたしは人間を知っていたから、さして驚きはしなかった。
しかし当のブルゥム・ホーンは参ってしまったのだろう。昨晩は遠吠えをやらなかった。
そうして、朝。ようやく安眠が得られたというのに、わたしはどうしても夜まで待ちきれず、ちょっとだけ彼をからかってやりに行こうと思った。
ブルゥム・ホーンは、想像以上にやつれていた。
視線は一直線に墜落し、折り重なった落ち葉の上に、この世の終わりを見出している。
全体的に落ちくぼんだ醜悪な姿のうちで、一本角だけが輝き、しかし、それさえも平凡さの中に紛れていた。
(人間に裏切られたくらいで、なんだ)
そう思いながら、反して、わたしはひどく焦っていた。
からかおうとは思えない。
その瞬間に、彼は確かに存在するのをやめてしまいそうだ。
なら、何ができる。わたしは怪物じゃないか。
口下手で、彼と同じで世間知らずな馬鹿でかい狼だ。言葉も通じないというのにどうすれば。わたしは。
(どうか、伝わってくれ)
「ウウー」
わたしは唸った。後ろ脚をつっぱり、前傾して地面に爪を食い込ませる。
牙を大きく剥き出した。
(いつも通りだよ。わたしは、お前がたとえ何であっても対等だ)
いつも通りに、ブルゥム・ホーンを小突く。
(ほら、遊ぼう!)
それほど強くはやっていないのに、彼は泣き出しそうに顔を歪ませた。
(わたしもお前を怖がらない。だから、わたしはお前の仲間だよ)
ブルゥム・ホーンが逃げていく。
「ウォウ!」と、わたしは咆えた。
どうして逃げるんだ。まるで、臆病者みたいに。
懸命に彼を追いすがったが、どうしていいのかはわからない。わたしがしたことは、間違いだったのか? それならば謝ってやるから、どうか足を止めて欲しい。
(いかないでくれ。お前がいてくれないと、また……)
わたしは幼狼に戻ったように、必死になって彼の尻尾を追った。
(大好きなんだ。嘘じゃないよ、ブルゥム・ホーン!)
本当に取り返しがつかないことをしてしまったかもしれない。やにわに生きた心地がしなくなった。助けてくれ、と、誰ともなしに懇願する。
狼狽が涙を滲ませたせいで、わたしは彼を見失ってしまった。
彼を見た最後の日のことだった。
「アォオオオオオオオオオ……ワオオンン……」
わたしが夜な夜な山の住人の安眠を妨害するように、つまり、遠吠えをするようになったのは、彼がいなくなってからすぐのことだった。
下手な真似事をすれば、ブルゥム・ホーンが怒って出てくると思った。
続けているうちに一年が経ち、二年が経ち、人間たちが勝手にわたしを崇め始めた。
彼とは違って、わたしの姿は人間の目に好ましく映ったらしい。
彼らは「輝く狼がもののけを追い払ってくだすった。あん方は神様の使いに違えねえ」という。
勝手に言っていろ、というのが神の使いの意見である。
わたしが夜のしじまを破るのは、愛おしいブルゥム・ホーンに帰って来て欲しいからだ。
それ以外の理由は何もない。その後のわたしから何もなくなってしまったように、何も。
人間は彼をもののけ、と呼んでいた。
毛むくじゃらで汚らしい姿をしているからだ。
しかし、角さえあれば。あの青色に透き通った角さえあれば、他の部分がいかに醜悪であろうとも、ブルゥム・ホーンの美しさは汚されない。
どうして、それがわからないんだ。
人間たちにではなく、ブルゥム・ホーンに対して思う。
自分自身のことなのに、どうしてわからなかったんだ。
(お前を真似するわたしを、さらに真似する者まで出始めたというのに)
虚無感にさいなまれながらも、夜だけは粛然と、高く、高く咆える。
どうかこの思いが、彼に届きますように。
いつかわたしの声を耳にして、そうして怒ってくれますように。
願いながら、今夜も咆える。
そろそろ身体にもガタがき始めた。わたしが化け物であっても、天寿にだけは逆らえない。もう何年か持つかすら定かではない、そんな今だからこそ、強く願う。
(早く帰ってきておくれ)
どうあっても、このまま終わりたくはないのだ。
彼に会いたい。それでどうするのかはわからない。喧嘩をするとしても、年老いたわたしが未だに彼と張り合えるかも知らない。
それでも。命が潰える前に、身体まで銀のぼろきれと化す前にどうか、もう一度だけ。
若かったあの頃のように。
もう一度だけ、お前の声を聞かせておくれ。
そうしたら、今度はわたしの声を聞かせよう。
わたしはこの山で待ち続ける。
贖罪のためではない。
再び生を得るために、今日もあの丘で声を上げる。
ブルゥム・ホーンA
http://ncode.syosetu.com/n6381cp/