第四話 転校生
がやがやとした賑やかな駅ではない。
ホームが一つしかない小さな町の駅だ。
屋根の端にはクモの巣がかかり、売店にはシャッターが下りている。
それでも帰宅の集中する時間だけあって、ホームには人の声が溢れていた。
私、直江瞳はそんな人ごみをかわしながら階段を下りて改札に向かう。周りはスーツを着た大人ばかりだ。疲れたように足の遅い人もいれば、何度も時計を確認して急いでいるような人もいる。
その中に私と同じ高校の制服の人は片手で足りるほどしかいない。
徒歩や自転車通学の人の多い高校で、電車通学組は珍しい。ましてや、その多くは反対側の大きな市出身だ。この小さな町に帰る人は少なかった。
しかも、その中に仲の良い人は一人もいない。ほとんど知らないに等しい人たちだ。
静かに一人、電車で登校して下校する。いつも通りの日々。その一年目はそろそろ終わる。
来週に終業式をやったら、もう春休みだ。
もう友達とは遊ぶ約束をして準備は万端だ。私は大きなため息をついた。
あー、早く春休みにならないかなあ。
この際、成績表の配布なんてイベントは無くしてしまいたい。
私は肩にかけたスクールバックから定期を取り出して改札を抜ける。
「あちゃあ……」
改札を抜けて、気が付いた。
雨だ。
電車の中ではイヤホンして携帯をいじっていたから分からなかった。
朝は降っていなかったし、天気予報は深夜から雨だって……。
私は睨んでもやまない雨に、頬を膨らませる。
傘、持ってきてないのに。
「どうやって帰ろ」
思わず呟く。
屋根の端まで行って手を外に出してみる。一瞬で手はびしょ濡れになった。しかも手のひらには水が溜まっている。嘘でしょー。
見た目以上に雨は強かった。
これじゃあ、制服がびしょ濡れになっちゃうじゃん。
でも、嫌がっていたらずっと帰れない。
よし!
私は意を決して、スクールバックを頭の上に掲げる。
左足を後ろに引いて――
「瞳ちゃん?」
優しい低温。反射で振り向こうとしてしまう。
「あわっ!」
急な動きの変化にバランスを崩してしまった。
やばい。転ぶ。
「おっと。危ない危ない」
優しい声はいっさいの慌てたふうもなく、おどけるような声音で言った。
肩を手が抑える感触。転ぶ直前で、動きが止まる。助かった。
この声。
けれど、あの人は引っ越してこの町にはいないはずじゃあ。
でも……。
私はスクールバックを肩にかけ直して深呼吸する。
そして、私は期待に胸を高鳴らせながら振り返った。
目と口が開かれる。
「田口先輩!」
まさか、本当に田口先輩だなんて。
その先輩は「よっ!」なんて無邪気に笑っている。
「久し振り」
「お、お久し振りです!」
本当に田口先輩だあ。
私は全身をくまなく確かめるように見てしまう。
視線が顔に戻った時、田口先輩が苦笑いしているのに気が付いた。
「す、すいません!」
私は深々と頭を下げる。
その勢いで肩にかけたスクールバックが下がり、側頭部に激突する。
「イタッ!」
ちょうど水筒が入っているところだったのだろう。
痛い。頭を抱えてしゃがみ込む。
恥ずかしい。
二年ぶりくらいに会ったのに、ダメなところ見せちゃった。
気付かれないように、唇をかむ。
「おいおい。大丈夫か?」
「!」
田口先輩が覗き込んできたので、急いで立ち上がる。
いつまでもしゃがみ込んでいたら、それこそ甘えん坊の格好悪い女だよね。
立ち上がった自分にガッツポーズ。
「おっちょこちょいは変わってないなー」
うぐ。
耳がすぐに熱くなる。絶対に顔が赤くなってるよ、コレ。
けれど、先輩になら笑いながら言われても悪い気はしない。
私もつられて笑う。
「で、傘忘れたの?」
「……はい」
私はちょっと目を逸らして言う。
またまた恥ずかしい。
「なら貸してやるよ」
そう言って、田口先輩は手に持っていた傘を差し出してきた。
私は慌てて胸の前で手をわたわたと振る。
「そんな。悪いですよ」
私は差し出された傘を押し戻す。
これは、もしや相合が――
「大丈夫。もう一本折り畳み傘持っているから」
用意周到ですね。
私はガックシと肩を落とす。
「いやー、向こうの家に傘を忘れてきちゃってさ。取ってきた帰りなんだ」
そうですか。
私は先輩が新たに取り出した折り畳み傘を睨む。このー。
そんなことをしても、折り畳み傘が消えるわけじゃない。
私はおとなしく傘を借りることにした。
* * *
私と田口先輩は駅通りの商店街を並んで歩いていた。
結構な強い雨が降っているせいか通行人は私たちしかいない。黙っていると、雨の音がうるさいくらいに耳に入ってくる。
けれど、この雨には感謝だ。
雨で立ち止まっていなかったら、田口先輩とは出会えなかっただろうから。
それだけで、気分が晴れるというものだ。
足取りもなんだかステップを踏んでいるかのようになる。
「その制服って夕暮高校の?」
田口先輩が隣から質問してきた。
顔を見ようとしても、身長差と傘のせいで顔が見えない。仕方ないので前を向いて答える。
「そうですよ?」
「へえ……」
田口先輩は意味ありげに息をついた。
私は首を傾げたが、気にしないことにする。それよりもさっきから気になっていることを質問した。
「先輩って、引っ越したんじゃないでしたっけ?」
「そうだよ」
それを確認して舞い上がる。それでも会えたという奇跡に。うん、奇跡だ。
「でも、親がちょっと海外に行くことになったんだ。けど、俺は英語できないからさ。こっちのおばあちゃんの家で暮らすことになった。だから、この町に戻ってきたんだ」
「本当ですか!」
「本当だよ。嘘なんかつくもんか」
私は少し傘をずらす。ちょっと肩に雨がかかったが気にしない。
そうして見た田口先輩は本当に見ていて和やかになる笑顔をしていた。
子供っぽいけど、どこか頼りになりそうな笑い方。
「傘は持っていきな。次に会ったら返してくれればいいよ」
「いえ、ここまで借りられただけで十分です」
私たちは交差点で立ち止まる。ここでお別れだ。
「次にいつ会えるか分からないですし……」
自分で言って虚しくなっていた。
そうだ。今日会えたのだって偶然なのだ。
高校だって先輩は頭が良いから夕暮高校なんて中堅高校には編入しては来ないだろう。
登校時間だって違うだろうし。
もう一度の、偶然を願うしかないのだ。
そう思うと、会えることの象徴であるこの傘を手放したくなくなってきた。
自然と取っ手を握る力が強くなる。
「そんな変な顔をするな。また会えるよ」
横断歩道の信号が青に変わった。先輩が渡る方だ。
先輩は私の目の前からするりと消えて横断歩道を渡って行ってしまった。
「待ってください!」
「大丈夫。会えるよ。絶対に」
私が前のめりになって叫んでいるのに、田口先輩は笑って走って行ってしまった。
私はその姿に小さく笑う。仕方ないよね。
私はいつも置いてけぼりだ。
勉強を頑張って先輩と同じ高校に目指すことにした。でも先輩もどんどん勉強して志望校のレベルが上がっていく。しかも引っ越してしまい遠方の高校に通うことのなってしまった。
いつも、どこかに行ってしまっていた。
今回だってそうだ。私が分からないままに、先輩は走って行ってしまった。
けれど、先輩が絶対というと不思議と実現するのだ。
だから、今のも。
「はい」
私は先輩の絶対に期待を寄せて、誰もいなくなった横断歩道に頷いた。
信号変わっている。
今度は私が渡る番だ。私は傘をクルクルしながら歩き出した。
* * *
私と田口先輩は中学の時に出会った。
私が通っていた中学校では、毎年秋に学習発表会が開催される。
クラスや部活単位で出し物をしたり、各学年でクラス対抗の合唱コンクールをしたりする。運動会に並んでみんなが盛り上がるイベントのひとつだ。
一年生だった私はクラスの代表として学習発表会実行委員会に入った。
小学校では特に何もしていなかった。けれど、これは楽しそうだったし、ちょっと新しい学校で張り切ろうとして立候補した。
自分でやると決めたことだから、やる気は十分だった。
けれど、意気揚々と参加した最初の活動の雰囲気に愕然とした。
静か、真面目。予想とは大きく違った。私はもっと小学生の時みたいにワイワイやって準備するものだと思っていた。
その結果なし崩し的に一番忙しいと噂のステージ係になってしまった。
ステージ係は当日の司会進行と前日までのステージ準備と、当日も含めて忙しいものだった。
慣れない仕事にたくさんのミスをした。
リハーサルだからよかったものの、進行の順番を間違えてセッティングしてしまったり、ひどいものだと壊してしまったりもした。
私は当日を迎える前に挫折しそうだった。
底で助けてくれたのが副委員長の田口先輩だ。
田口先輩は私にたくさんのアドバイスをしてくれた。それに失敗してしまった時も笑顔でミスをフォローしてくれた。
一年生で、他の上級生のステージ係から怒られてばかりだった私にとっては田口先輩は大きな支えだった。
いつのまにか、田口先輩の姿を探すようになった。
そして、田口先輩も私を気にかけてくれた。田口先輩は優しいから、みんなに声をかけていたのかもしれない。でも、声をかけてくれることは嬉しかったし、頑張れたのはそのおかげだ。
当日はミスなく終えることができた。
最初の私からは考えられなかった。
けれど、ここまでだ。
実行委員は解散。田口先輩との唯一の接点が失われてしまった。
校内でたまに見かけるのは多くの友達に囲まれた田口先輩だ。声をかけられるはずがない。だから、遠くから眺めているしかなかった。
何度か二人で話せそうなチャンスはあったが、軽い挨拶程度で終わってしまった。
そのまま二月が過ぎて三月になった。終業式が、近い。
「よ、瞳ちゃん」
「田口先輩!」
久し振りに廊下ですれ違った。
しかも、部活も終わったあとに。
一緒に帰る友達は昇降口で待っている。私が最後に教室の鍵を閉めてきたから、周りには誰もいない。
本当に二人きりだった。
暗くなった校舎の中は、ちょっと身震いする。ちょっとした物音にも反応してしまいそうだ。今は、何も音がしない。
ちょっと怖いけど、田口先輩といると、安心感を覚える。でも、けっこうドキドキもしている。
「どうしたんですか?」
「いや、瞳ちゃんにも言っておこうかな、と思ってさ」
田口先輩はいつもの笑顔を少し寂しげに変えて笑っていた。
私は何か嫌な予感がして、手に持っていたカバンをギュッと握る。
「実は来年から他の学校に通うんだ。親が転勤で引っ越すから」
「えっ……」
私は何も言えない。
言いたいことはあったかもしれない。
でも、喉元でつかえてしまった。
「学習発表会の時は、ありがとう。楽しかったよ」
「い、いえ。こちらこそお世話になりました」
私は慌てて頭を下げる。
チラッと田口先輩を上目で見上げる。
先輩はいつもの笑顔に戻っていた。
「じゃあね」
田口先輩は廊下を走って昇降口の方へ行ってしまった。
伸ばした手は気まずそうに、宙をさまよった。
一体、なんて声をかけようとしたのだろう。今、告白したところで……
手が自然と下ろされた。
いつになったら私の手は届くのだろう。
諦めが心を支配していた。
* * *
まだ、希望を持っていていいのだろうか。
今日は始業式だ。
田口先輩とはあれから一度も会っていない。見かけてすらいない。
昇降口に掲げられたクラス分けの名簿に従い、新しい教室に向かう。
「おはよう。瞳」
「おはよう」
友達とはまた同じクラスだ。
それだけで二年生は順調なスタートを切ったと言える。
担任の先生も、優しくてみんなに人気の先生だ。やったね。
確かに新しい教室、クラス、担任だけれども今まで以上に落ち着きがない。
小学校、中学校と何回も経験してきたけれど、今日の落ち着きのなさは異常だ。
……原因は分かっている。田口先輩だ。
私は田口先輩の姿を探してしまっていた。いるわけ、ないのに。
キーン コーン カーン コーン
チャイムが鳴り、教室が騒がしくなり始める。
今日の授業は始業式の後のホームルームだけだ。だから、午前で授業が終わる。
周りのみんなが立ち上がり、教室の各所で午後何をするかの話し合いが始まる。映画を見に行く、カラオケに行く、御昼ご飯はどこで食べようか、など。
そんな中、私はため息をつく。こんなことならあの時に連絡先くらい聞いておけばよかった。
今さら思っても、遅い。
友達が声をかけてくれて、私も立ち上がる。
まあ、そんなにうまくいくわけがないよね。
地道に探すしかないのかあ。
私は教室をさっさと出ようと思ってカバンを持つ。
「瞳ちゃん!」
周りが騒いでいても、耳が痛くなるくらいうるさくても私にはその声が聞こえた。
いや、かなり大きな声だったのだろう。
私だけじゃなくて他に人も扉の方を見ていた。
「……田口先輩」
田口先輩は夕暮高校の制服を着ていた。
驚きと恥ずかしさで声が出ない。
みんなの視線が私にも向けられてくる。
顔から火が出てもおかしくない。
私は友達に一言言って、俯きながら教室を出た。
途端に後ろの教室がさっき以上に騒がしくなる。話の内容は、さっきまでとは大きく違ったものだろう。
「田口先輩」
廊下で並んで歩く私たちには好奇の視線がビシビシと向けられている。
「どう? びっくりした?」
田口先輩はそんなもの知らないかのように普段通りだ。
そして、それに子供っぽさがあるから怒るにも怒れない。
「本当に、びっくりしましたよ」
だから私も笑ってしまう。
「今日からここに転校したんだ。三年編入かな? だから、これからよろしく」
「はい!」
私は大きく頷く。
また、同じ学校に通えるようになった。
どおりで三年生からの視線が強いわけだ。転校生がいきなり一つ下の女の子と歩いているんだもん。
私もそんなのお構いなしに笑う。なるべく元気に、明るく。そして堂々と。
田口先輩に負けないくらい。
目が合う。
そらさない。お互い、もっと笑顔になる。
私たちは昇降口で各学年の下駄箱に分かれて、校門でまた一緒になる。
私は学校周りを案内しつつ駅に向かった。
田口先輩はずっと笑って聞いてくれていた。
そして電車に乗って、声をかけられたあの日の駅に戻ってきた。
私はそこで思い出して、聞いてみる。
「そういえば、何で田口先輩は夕暮高校にきたんですか?」
田口先輩の学力があれば、もっとレベルが上の高校――例えば二つ向こうの駅にある南郷高校――に行けたかもしれないのに。
田口先輩が立ち止まる。
私も立ち止まって、先輩の顔を見る。
「!」
田口先輩が私を見ている。
その視線が強くて、目をそらしてしまう。
落ち着かない。カバンを無意味に持ち替えたりしてみた。
「それは、瞳ちゃんがいたから……」
反射で顔が上がる。
先輩の頬が赤くなっていた。
「それって……」
「たぶん、瞳ちゃんが思ってくれている通りで合ってる」
田口先輩がすっと視線をそらす。その顔は耳まで赤くなっていた。
本当、だよね。
私は爪を手のひらに食い込ませる。
痛い。
夢じゃない。夢じゃないんだ。
ほろり。
何かが頬を伝った。
「うそっ!」
田口先輩がびっくりした顔になる。
しょっぱい。
口の中にそれが入ってきた。涙か、これは。
人通りの少ない平日の昼間とは言えそこは駅。
駅員だっているし、売店のおばちゃん、少しの利用客だっている。
ちょうど来た電車から降りてきた人たちからの視線が刺さる。
「ちょ……」
いつもは動じない田口先輩が慌てている。
「こっち!」
「!」
田口先輩が私の手を取って走り出した。
どこに向かうのだろう。
私は手の感触にドギマギして、走るのに精一杯だ。
……はあ、はあ。
田口先輩は小さな公園に入ったところで足を止めた。
駅の裏手にある山の中腹にある公園だ。そこからは海が見えた。
春の太陽が青い海をきらきらと輝かせている。
夏と違って控えめなそれは、落ち着いた心を戻してくれる。
「すいません……」
私は涙を拭って、田口先輩の顔を見る。
田口先輩は心配そうな顔をしていた。その顔はどこかかわいい。
「嬉しくて、つい……」
私はそれだけはいち早く伝えたかった。
まだ、涙の余韻は残っているけれど。
田口先輩は少しホッとした顔になる。
「もう一度、言ってください」
「え?」
私は少し下を向く。
恥ずかしい。
「私、ちゃんと返事していないです」
目線だけ上げてお願いしてみる。
ダメですか?
心の中で呟いた。
「俺、瞳ちゃんがいるから、夕暮高校に来た。だから、付き合って……くだ、さい」
最初は勢いがよかった田口先輩も、最後ほ頬を赤くして下を向いてしまった。
憧れて、追いかけていた人が告白してくれた。
私は月並みな表現だけど、天に舞い上がりそうだった。
また涙が出そうになるのを、一度目を押さえてこらえる。
田口先輩への返事は泣いていたらダメだ。
私はふせていた顔を上げる。
「私も、大好きです!」
思いっきり笑って答えた。
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