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変身少女  作者: ユウヤ
本章
8/14

異形 二

 飛び出した深夜の廊下は、煌々と蛍光灯が照らすだけで、人の気配も無く、寂しいものだった。

 頭で考えるより早く、脚が勝手に階段に向かい、駆け下りる。しかしすぐに3階でその脚が止まった。階下の暗闇に慄いて前に進めない。そして照明の点いた3階の廊下に脚が向かってしまう。その一番遠い端には怪物の咆哮と遭遇した2年A組があるのだから、そこに向かっても仕方が無いのに。

 だがしかし、目をやったその先、2年A組の前の廊下に焦茶色のリュックサックが落ちているのが見えた。晃太は、もはや正常に思考することができなかった。だから身体が動くのに任せて、そこまで行き、そしてそれを拾った。

 2年A組の教室は相変わらず照明が落ち、扉も二人が逃げ出した時のまま、半開きだった。

 晃太は、それからどうしていいのかわからなくなって、立ち尽くした。

 そして、そこで初めて自分の頬が濡れているのに気付いた。その悲しみは真っ黒い恐怖に覆われて意識の表面まで届いていなかったが、しかしそれは絶望的なまでに大きなもので、晃太は今度は、自分がその悲しみの海に溺れて窒息してしまいそうなことに気付いた。身体感覚さえもあやふやになった晃太を、手にしたリュックサックの重みだけが、それまで過ごしてきた現実世界に繋ぎ止めていた。

 リュックサックの中身を見たいと思った。落ち着いてそれを確かめられる場所に行かなければならない。それが、今彼が抱けるたった一つの目的となった。

 そして、晃太は意を決すると、再び階下の闇の中を走り下り、そのまま玄関ホールまで駆ける。障害は無かった。進入したときから土足のままだったので、そのまま靴を履き替えることもなくホールを走り出ると、今は散り果てた桜並木の道を一気に走って校門まで辿り着いた。何かが追ってくる気配は無かった。もっとも、襲い来る透明な物体には気配は全く無いので、それを探し当てるのは至難の業ではあったが。

 時刻は既に深夜の12時に近くなっており、街灯も疎らな校外も、かなり暗かった。しかし、暗闇と非現実的な何かが詰まった建物から脱出したことで、晃太はようやく死に瀕したような恐怖から少しだけ開放された。

 息を整える。校門を乗り越え、その先の道を辿れば帰宅できる。携帯には家からの着信履歴があった。日付が変わるような時間まで帰宅できないとは想定していなかったため、家族には、友人と買い物に出かけるとしか言い置いていなかった。今から戻れば、叱られはするだろうが、安全な現実に帰れる。

 しかし、その想像は空しかった。数時間前にそこに並び立った少女は、家族の待つ家には帰れない。失踪。そして荷物だけが自分の手に残されている。それを持って校門を乗り越える決心が、どうしてもつかない。

 そうして少し緩和した恐怖に代わるように、悲しみがどんどん重みを増していき、今度はその場から動けなくなった。

 だから晃太はリュックサックを開けることにした。懐中電灯を点けるのは、さすがに躊躇われた。曇り空から差す僅かな星明りを頼りにリュックサックの中身を探る。中には、明子が言った通り、おにぎりが入っていた。その他に寝袋やタオル、紙コップ等も入っている。保健室のベッドと寝袋を使って、晃太も巻き込んで学校に宿泊でもするつもりだったのだろうか。

 それは喪失感なのか。それとも、嬉しさなのだろうか。尊い熱が蛍の光のように晃太の胸中に明滅した。

 それで兄が見付かると…。そう、荷物の中には兄の写真も入っているのだろう。それがどんな写真なのか見たかったが、暗闇の中では見えそうにない。


 そして、疲労のためか、それとも感傷に浸ってしまっていたせいなのか、晃太はその姿が数メートル先に迫るまで、その足音に気付かなかった。

「速川君」

 驚きのあまり飛び上がった。声が詰まり、口をパクパクさせる。

「羽田さんも、失踪してしまったの?」

 心臓が爆発しそうだった。闇の中で対峙する雨宮潤子も恐ろしかったが、それ以上に明子を見捨てたことは触れられたくない生傷だった。

「彼女、お兄さんには、ご挨拶できた?」

「やめろー!!」

「…きっと、お兄さんにも会える。それに、速川君と過ごせてきっと良かったって思ってる」

「嘘だ。雨宮さんはわかってないよ。俺は、ダメだった。明子を…」

「いいえ、彼女は今夜ここに来れて喜ぶべきなのよ」

 容赦無く、血が溢れ出る生傷を抉られた。

「違う!ここに来さえしなければ」

「ダメよ。みんなそうなるんだから。私だって、茜と会えて良かったって思ってる」

「矢吹…さんに、会った?」

 雨宮潤子は、今度はそれまでの饒舌から一転して、本来の寡黙と微笑を湛え、晃太の方をじっと見た。

 薄い星明りに浮かぶ彼女の白皙の顔は、そのまま彼女の背にかかる長い黒髪や、その向こうの校舎まで透かして見えそうに思えるほど、透明だった。彼女もまた非現実の存在なのではないかと疑わしくなる。

 しかし、よく見るとその目は晃太の顔を見てはいなかった。それより少し下、晃太の足元。リュックサックからひろげた荷物を見ているようだ。

 つられて見下ろす晃太は、その中に、ふと、澄んだ夜の闇を映したような、水のように滑らかに透き通る何かを見付けた。

 しかし、それには形が無く、それが何なのかよくわからない。だが見ていると、妙に懐かしい気もする。

 よく見ればそれは、地面に立つ自分のスニーカーの中から顔を覗かせていた。懐かしいと感じたのは、自分の履き慣れたスニーカーを凝視していたからだろうか?

 それとも。やはり、本来は当然、とてもよく見慣れたものがそこにあるべきなのだから、実際には今それがそこに無いにも関わらず、懐かしいという錯覚をしてしまったのだろうか?

 まるでそこに見慣れた自分の脚が在るかのように。

 晃太の意識が遠のいた。立っていられなくなり、尻餅をついた。全く踏ん張っていなかったため、尾てい骨が地面に落ちていた石礫にしたたかに打ち付けられてしまい、ひどく痛い。正気だったら目から火が出るほどの尻の痛みで、ほんの少しだけ意識が浮上する。

 立っていられる訳など無い。踏ん張れるはずもない。地に立つ足が無いのだから。曖昧になっていく意識の中で、そんなことを考えた。

 でもそれなら、どうやってここまで走ってきたのだろう。

 疑問を解く前に、思考力が溶融した。仰向けに倒れゆく晃太の目には、セーラー服と風になびく黒い長髪が映った。

 しかし、対する雨宮潤子の眼前には、焦げ茶の大きなリュックサックから溢れて地面に広がる紙コップや、寝袋や、男子用の2年生指定の赤ジャージや、履き潰されたスニーカー等の雑多な荷物と、それを覆うように広がる粘性の半透明な物体が在るだけだった。


  雨宮潤子は、まるでそれまで目の前にいる相手と会話していたことなど無かったかのように、それに背を向けた。振り返った視線の先には、いつの間にか、はち切れんばかりに膨らみ、いくつかの釦は実際にその膨らみに耐えられずに弾け飛んでしまっている学ランが、浮遊しながら近付いてきていた。

 もしじっくりと観察したならば、それは、ほぼ透明な粘性の物体が、ボディビルダーも及ばぬほどに異常に筋肉を発達させ、かろうじて四肢の区別があるのがわかる程度の化け物の姿をして学ランを着ているのがわかっただろう。

 しかし、彼女はそれを一瞥しただけで、その姿にはさして興味も無いように、校舎の方に視線を移した。ただ、独り言のように呟いた。

「さっきの人ね。あなたにも最後に会いたかった人はいるの?」

 学ランの袖が彼女の方に伸びた。その袖は彼女に向かいながら、内側から裂けた。急速に膨れ上がる、ゲル状の、腕と呼べるかどうかも不明のものが、そのまま彼女に触れようと伸ばされる。

 それに対して彼女は、傍目には何もしなかったように見えた。だが、彼女に伸ばされたその腕のようなゲル状の何かは、彼女の10センチ手前で、突然、弾かれたように跳ね返された。

「あなたには意思が残っていないのね」

 びりびりと、布が裂かれる音が、深夜の校門に響く。今度は学ランが内側からの膨張に耐えられず完全に破け、そのまま風に吹かれるボロ切れのようにふわふわと彼女に近付いた。その実態は、ゲル状の筋肉質な化け物が、真夜中に一人佇むセーラー服の女子高生に襲い掛かる絵図だったが、まるで彼女の呟きが魔法の呪文ででもあったかのように、呟く彼女に触れる寸前、化け物は音も無く、再び10メートルも背後まで跳ね飛ばされた。

「でも、速川君はもう少し心があったみたいよ」

 彼女の背後で、突如すさまじいピッチで土を蹴るスニーカーの音が立った。それは彼女が振り向く間も無く、あっという間に校門を飛び越えて遠ざかっていった。

 一方、跳ね飛ばされた怪物は、よろよろと再び彼女の方に行こうとしていたが、僅か10メートルの距離が遅々として縮まらなかった。

 裂けた学ランは既に怪物の身体からは脱げ落ち、明後日の方向でゴミのように風に吹かれていた。

 そんな中、彼女の見つめる先にある、玄関ホールの中から、リノリウムの階段を淡々と下る靴音が微かに聞こえる気がした。

 その音に彼女は、悲しみとカタルシスとがないまぜになったような言い得ぬ感情を覚えて、思わず目を見開いた。

 しかし、それも見る者があれば、まるで透明なマネキンが着てでもいるかのように不気味に宙に浮かんだセーラー服の肩が、ほんの少し上がっただけにしか見えなかっただろう。

 親友はどんな姿を見せてくれるのだろうか?

 高鳴る鼓動に、セーラー服の胸が微かに脈打った。

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