異形
それからしばらく、二人は息を潜めてそこにいた。全く動かない男子生徒の様子が不気味だったが、特に危険は感じられなかった。
あの咆哮はなんだったのか?
二人とも認識しているのだから、空耳ではない。そして、風や何かの音でも無い。それは例えるなら、千頭のライオンが一度に吼えたような獰猛な声。間違いなく声に聞こえた。それも、桁違いに凶暴な。千頭のライオンでもまだ温い。その教室で聞くことなどあり得ないが、しかし恐竜の声だったと言われた方が、まだ納得がいきそうなものだった。
二人ともそのことを思案しているはずだったが、しかし教室には沈黙の時間だけが、いたずらに過ぎていった。
そうして、ふと携帯で時間を確かめると、十時を回ったところだった。
「そういえば、あの荷物に何が入ってたんだ」
思い切って聞いた。
「…食べ物とか」
「でも一応、飯は食ってきたんだろ」
「うん」
「夜通し探すつもりだったのか」
「お兄ちゃんの写真とかも」
晃太は言葉に詰まる。今回の捜索は、顔写真を使って人に尋ねるものではないのだから、それは明子の精神的な支えとして持ってきたものだったのだろう。
「ごめん」
再び会話が途絶えた。
二人が逃げ込んでから、廊下からは何の気配も伝わってこなかったが、再び廊下に戻る勇気は出ない。
しかしあれほどの咆哮の主が、その後沈黙しているのも不思議ではあった。
そもそも失踪者の次は怪物?
連続する非現実に、対処方法が全く見当たらなかった。せめて日が昇り、この闇が払われれば、何もかもが明らかになるのだろうが。それまで、少なくとも怪物に食い殺される恐怖に耐えねばならないと思うと、晃太の気分は沈んだ。そして明子もまた、兄の捜索を中断させられ、気分は暗かった。
しかしこの夜は、そんな二人に、消極的になっている暇など許さなかった。
進退窮まった二人。恐怖に縛られ、なす術も無いまま11時を過ぎようかというその時。シェルターにしていたその教室に異変が起きた。
「あれ?」
先に気付いたのは晃太だった。
「明子、いなくなってないか」
明子も俯いていた顔をそこに向け、それからしばらく動かなくなった。晃太は背筋が寒くなった。
男子生徒の姿が自席から消えていた。男子生徒が隠れられるような遮蔽物は無いが、廊下から漏れ入る蛍光灯の明りだけの室内には闇が散在している。
しかし、あの咆哮の恐怖を思い出すと、とてもではないが照明や懐中電灯を使う気にはならない。
日が昇るまで隠れていられさえすれば良かった。そして更に言えば、この膠着に陥ってから、晃太は今後も忘れられそうに無いこの夜の体験を明子と共有できることに、利己的とは思いつつも、微かな喜びに似た感情すら抱き始めていた。
しかし、名残惜しいそんな幻想も、すぐに、新たなる未知への恐怖に塗り替えられた。
二人とも、時間が止まったかと思われるほどに、じっと息を潜めて教室内の気配を探った。
しかし、男子生徒には元々気配は無く、室内には今もその姿が消える前と何ら変わらない、重苦しい静寂だけが満ちている。目が届く範囲にその姿も見当たらない。
二人には何もできないが、考えれば考えるほど不気味だった。あんな静寂の内に、どのようにして二人の眼前から姿を消せるのだろうか。ドアから出たとは考えられない。しかし、そうでなければこの教室から出ることはできない。教室の中の、どこかにいる。
晃太の緊張は限界寸前だった。
どうする? そんな無意味な言葉を発するのを堪えるのがやっとである。
「ゴキと遭遇でもしたみたいだな」
代わりに軽口を叩いてみる。しかし、明子も、そしてゴキ扱いの彼からも全く反応が無かった。
「隠れてないで、出て来いよ!」
ついに限界を超えてしまった。一瞬、得体の知れない怪物から逃げ、隠れていたことも忘れてしまう。
そして、無意識に、縋るように明子を見る。
しかし明子は、意外なものを見ていた。首を上に向けている。
天井?
つられて見上げた晃太は、その視線の先にあるものを目にして、それまでで最大の衝撃を受けた。
それは半透明になった男子生徒だった。
否、正確には、学ランに包まった半透明の何かだった。その物質には色が無く、表面は液体のように滑らかな起伏があるのみで、例えるならば、それは等身大のグミのようだった。それが、天井に半ば張り付いてぶら下がっている。廊下側の天窓から灯りが入るため、天井付近はそれなりにものが見える。勿論それが何なのかは全くわからない。ただ、男子生徒を連想させる学ランだけが奇妙な現実感を帯びている。
晃太はあまりの驚きで、脳内で逃げ出すよう声高に叫ぶ思考とは裏腹に、手足が金縛りにあったように言うことを聞かなかった。晃太の釘付けの視線の先で、それはゆっくりと伸びながら床の方に近付いていった。
しかしそれに対して、真下にいる明子は、魅入られたように動かなかった。
急速に湧き出て、意識を黒く塗り潰そうとする絶望を何とか抑えながら、晃太は明子に必死に目を向ける。しかし。その視線に込めた願いはあっさりと裏切られ、物質は明子の顔面に接触した。
釦を閉じた学ランの首から出て延びた部分が、ゆっくりと、見上げる明子の顔面に接し、それを覆うように拡がる。学ランとの位置関係からすれば、まるでその物体が明子とキスしたような状態だ。透明なスライム状の物体はさらに明子の耳、首、肩を覆って、下へと伸びていく。晃太は、天を振り仰いで目を見開いたままの明子の顔から視線を逸らせなかった。明子を覆う物体が、その口や耳からも明子の体内に侵入しているのが見えた。その彼女の変わり果てた目には、到底、生命が宿っているようには見えなかった。
それは、確かに晃太にとっては一生忘れられない体験だが、明子と共有することができない。
恐怖と絶望に染まる中、晃太の心の片隅が、微かに疼いた。
やがて物質は明子を覆い尽し、床に達した。晃太はそこでようやく我に返ったように、身体の自由を取り戻した。急に声が出せるようになり、怖れ、叫ぶ。そしてまっしぐらに教室のドアに取り付く。開かない。あまりの恐怖に振り返ることもできないまま、しばらく必死で開かないドアと格闘する。そうして晃太は、ようやく自分で鍵をかけたのを思い出し、鍵を開け、廊下に飛び出した。