変身
物音も無い深夜。薄闇の空間で、リノリウムの階段が昼間とは違うぼんやりとした色に見える。
そんな階段を淡々と下る足音が一つ、静かな校舎に響く。
白く塗られた壁。やや高い天井。それは矢吹茜にとっては長い時間を過ごしてきた場所であり、昼間であれば見慣れた光景のはずだったが、普段とは異なる深夜の人気の無いその雰囲気には、それまでの日常の枠からはみ出してしまったような感覚があり、そこにいる自分さえも自分ではなくなってしまったような言いようの無い空虚な錯覚に捕らわれた。
その思考は普段とはかけ離れた静謐を湛えていた。耳に届くその足音も他人の足音に思われる。そして階段を下っていく細身の腕も脚も、着慣れたセーラー服の身体も、自分でありながら半ば自分ではない人間のもののように感じられる。
地に脚が付いていないような、ちぐはぐになった身体感覚。浮遊感。
それはますます増していき、そしてついにはその精神が人形になったような無感動に陥るようになったとき、短い階段が終わり、下駄箱が並ぶ広い玄関ホールが現れた。茜の視線が呆然と、ホールに立ち並ぶガラス戸の向こうの光景に向けられる。ホールの外に広がるその光景が写されると、ガラス球のように乾いていた茜の眼から突如として透明な涙が涌き出し、堰を切ったように溢れ、流れ出した。
それは女子高生、矢吹茜としての最後の時間を迎えた彼女の心が、それまでの彼女の長くない人生が確かに存在したことを主張しようとしているかのように、静かに零れ落ち、薄闇に溶けた。
そして、静から動へ。彼女がそのスレンダーな身体を強張らせ、力むように身を屈めると、セーラー服の白い背が波立ち、音を立てて破け、そしてその中から荒野のように肌理の粗い爬虫類の皮膚が急激に膨張して現れた。シュウシュウと肉が焦げるような音が漂う。少し前まで彼女の細い脚が立っていた場所には、今や竜脚が大木のようにそびえ立ち、両足に3本づつ生えた棘のように鋭い漆黒の爪の先に黒いローファーがゴミのように引っかかっている様子は、まるで何かの間違いとしか思えない。
同じく左右に伸ばした、ほっそりと美しく、昨日まで男子生徒の目を惹きつけていたその腕は、見る間に滑らかな皮膚の色を失い、まるで巨大な蝙蝠の羽のように大きな拡がりとなっていく。そしてセーラー服を突き破った背骨の上端、元はセミロングの黒髪がかかっていたうなじから先には、今や爬虫類独特の骨ばった頭部が岩石のように厳然と存在し、その大きな顎の上で、細められた二つの瞳孔が獰猛な眼光を眼前の光景に向けている。
もはやその闇色の竜の琥珀色の眼からは、ほんの少し前までそれが女子高生、矢吹茜だったことを読み取ることは不可能だった。
そして、生まれ出たばかりの世界に萎縮してでもいるかのように窮屈そうに背を丸めた竜は、そのまま音も無くガラス戸の向こうに向かって歩み出す。
すると避けもせず進む竜の前で、その進路に立ち並ぶ下駄箱が弾かれたようにガラス戸の方に吹き飛んだ。本来のその場所の主である学生たちに履き込まれて黒ずんだ上履きの群れが、遠いところにぶちまけられる。
その障害物に竜は触れていなかった。見る者があれば、それは不可思議な光景に思われたに違いなかった。竜の周囲にある傘立てや小さな防火壁が、竜の半径数メートルの範囲に入ると、たちどころに透明な力によって弾き飛ばされた。
そしてついにその悪魔のような黒い翼を開き、巨体が校舎の外に躍り出る。
砕けたガラス戸の向こうには、県立倉野高校の小さな土のグラウンドと、低層建築の敷き詰められた静かな住宅街が広がっていた。
その寝静まった小さな街に飛び出す巨竜。すると、それに呼応するように、街に異形の眼光が続々と出現し、竜の姿を捉えた。夜の街に発生した、音も無く蠢く無数の異形達は、竜の姿を追って群れをなしていく。
竜の舞い去った三日月の夜空から、ひらひらと、焼け焦げたえんじ色のスカーフが舞い降りた。