09
雪が降り続く中を、俺と琳子は殆ど会話も無しに歩いた。吐く息は目の前を白く曇らせ、手や足先は寒さで悴んでいる。
「……」
真っ白な雪を見ていると、ほんの数日前にここへ帰って来た時の事を思い出す。
素直に懐かしいと感じた故郷。七年ぶりに再会した汐弥は、自分勝手にここを出ていった俺を、あの時と何一つ変らず出迎えてくれた。
『さて、外は寒かったろ?早く上がって温かいもんでも飲みな』
まるで少しの間だけ出かけていただけかのように、何の蟠りもなく汐弥は笑った。だから…
『このお人が、汐弥さんの想い人やて』
琳子の言葉を聞いた時、声が出せなかった。一欠けらもそう思っていなかった訳じゃない。ただ、第三者から聞かされたその言葉の重さに打ちのめされただけだ。
――千寿…アタシがいるから…
記憶の中にある汐弥は、いつも笑っていた。
――アタシはずっといるから……
でも本当は、いつだって泣いていたのかもしれない。
――アタシが…
二十歳になって、俺は自分が決めていた通りにここを出る決意をした。それを簡単に汐弥に告げたのは、町を出る前日だった。
汐弥は一瞬驚いたような顔をして、それから何とも言えない顔で「どうして?」と聞いた。
その問いに俺は「ここが嫌いだから」と答えた。
汐弥は笑うでもなく、泣くでもなく、ただ静かに「なら、しかたないね」と呟いた。
ただそれだけで終ってしまった会話。それは別れの朝も同じだった。
ふらりとすぐそこにでも出かけるように「じゃあな」と言った俺に、汐弥はいつもの笑みを浮べて「いってらっしゃい」と返した。
あっさりとしたそれに、別れなんてこんなものかと思った。
だから町を出るまで一回も振り返らなかった。だから本当は知らないんだ、汐弥がその時どんな顔をしていたか…どう思っていたのか…
――いかないで…
あの時、振り返っていたら…俺の足は止まったかもしれない。
――おいていかないで
何かが…変っていたかもしれない。
けれどそれはもう昔の話で…今更どうすることもできないのが現実だ。だからこそ俺は今ここでこうしてるんだとも思う。琳子と並んで歩いて、宿に辿り着いたら汐弥はまた笑うんだろうか?何事もなかったかのように「おかえり」と言うんだろうか?
「千寿はん」
不意にかけられた声に俺は振り向く。先程まで隣にいたはずの琳子が数歩後ろに立っていた。
「琳子?」
「うちとはここでお別れ…一人で戻らはって」
優しく笑った琳子の言葉の意味はすぐに理解できた。琳子は汐弥に何も言わないつもりなのだ。俺の事も何一つなかった事にするつもりなのだ。
「うちの命の恩人やから…」
だから、ここから先へは進まない。
「汐弥はんを…頼みます」
そう言って琳子は深々と頭を下げた。そんな彼女の姿に、俺も頭を垂れる。声には出さないが「ありがとう」と、そう心で呟いた。
暫く独りで歩いて、そこへ辿りついた。
恐らく俺が今一番安らげる場所。一番大切な女がいる場所。俺の最期の場所。
「……」
ふわりと舞う雪の中で、その姿を目にする。頭の上に積もった雪が、どれほどの時間そこにいたのかを物語っている。まるでここへ戻ってきた時の自分のように…
―なぁ、待っているのか?
居ても立っても要られず、知らず足早に駆けていた。
――待っていたのか?あの時も…
その姿が俺に気が付くよりも少し早く、それはその場に辿り着く。
「汐弥!」
呼ぶと同時にその体を抱きしめた。
「千、寿…?」
戸惑ったような小さな声。その声が微かに震えているのに初めて気が付く。体は冷え切って冷たくなっていた。どうして今更…こんなに愛しくなるのか自分でも分からなかった。
「汐弥…」
抱きしめる腕に力が篭る。今更ながらそれを口にする事が躊躇われた。けれどそれでは何も変らないのだと思い直す。
「汐弥……お前が好きだ」
そうして、その思うよりずっと細い体を抱きしめながら、そう言った。
「……」
言葉を失った汐弥を、俺は黙って抱きしめ続けた。懐かしくて、息が詰まって、言葉が上手く出てこない中、まだ『あの言葉』をいっていなかった事を思い出して口にする。
「ただいま」




