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死刻蝶  作者: 森村芥
8/14

08

翌朝、ほぼ同時に目を覚ました俺と琳子は、まるでそれが当たり前かの様に一緒に朝食を終え、片付けを手伝い、食後の茶を飲む。ゆったりとした時間だった。

「そんなら、約束どおり絵を描いてくらはるんやろ?」

笑みを向けられ俺は頷く。今の今まで人を全く書いたことがないわけではないが、前に書いたときには自分には合わないものだと感じていた。だからそれから全く書いていない。絵描きになってからと考えるならば…これが初めてだった。

そう時間をかけて描くわけではないのだからと、気をはらないで紙と筆だけを手にする。琳子はそれを黙ったまま見つめていた。目を向けると当然の様な笑みが返ってくる。全体を通せば綺麗に見える琳子だが、その一部ずつは子供のようなあどけなさを残していた。くりっとした目、小さな唇、丸みを帯びた輪郭、短く切られた髪、その全てが相まって綺麗だと思わせた。

「ひとつだけ聞いてもええ?」

それは小さな声だったが、筆の音以外雑音のない部屋でははっきりと耳に届く。視線を上げると琳子が小さく目を伏せる。

「千寿はんは、なんでこの街へきはったん?」

そういえば琳子にはここが故郷だとは言っていなかった事を思い出す。ためらったのは一瞬、すぐに返事を返していた。

「ここは俺の故郷だからな…二十歳の時に出て以来一度も戻ってこなかった…だから、最後ぐらいはここで過ごそうと思ったんだ」

「…家族は、おらへんの?」

「あぁ…ずっと昔に死んだ」

短く切った言葉に返事はなかった。たいていの人間は聞いてしまったことに侘びをいれる。だから少しだけ違和感を感じた。けれどその違和感は嫌なものではない。むしろ心地いい。

「帰ってきても一人やのに……戻ろうおもはったん?」

「……」

一人じゃなかった。戻れば汐弥がいる…その確信があった。だから戻ってきたのかもしれないと今更に思う。

「誰か…おりはるんやね」

その声はほっとしたため息にも似ていたが、どこか寂しそうでもあった。

「なんで…その人の所へいきはらへんの?」

その問いは出て行けというものではなく、本当に純粋な疑問だった。

「最初は、そいつのところにいたんだ。それでいいと思っていた…だが数日たって、どうしてここにいるのかと疑問に思った」

「……」

「そいつは自分より他人を優先するような奴で、俺が死ぬとわかれば辛い思いをさせるだろうという事は分かっていたはずだった。だというのに、どうして俺はここにいるのかと…だから出てきたんだ」

どれ程沈黙が流れたのかは分からない。静かにそれを破ったのは琳子。

「その人のこと…好きなんやね」

顔を上げると、やさしい笑みが目に映った。何一つ辛いことなどないというのに、なきそうになる。

「好きで、大切で、傷つけたくないから……だから自分が寂しぃても、出てきはったんやろ?」

ゆっくりと傍まで歩み寄ってきた琳子が傍で膝をつく。小さな両手が、俺の手を包み込む。

「絶対に来るって分かってる別れは怖い。そやけど、それを伝える事がその人を悲しませる事かは別なんやないかな?」

それは誰に向けた言葉だったのか…琳子自身に対してだったのかもしれない。

「別れの時は悲しくて、辛くて、泣き暮れるけど……出会ったこと、過ごした時間、貰った温かさ、それは全部忘れはせんし、後悔もせぇへん」

丸い目が顔を覗き込んでくる。

「死ぬまでに、何か残せるんとちゃいます?」

その目がにっこりと閉じられ、包み込む手に優しく力がこめられた。残せるもの…たった一つでもいい。汐弥に残せるものがあるのだとすれば…

「俺は…返してやりたいんだ」

ずっとずっと汐弥から貰っていた、貰い続けていた優しさと幸せを…ほんの少しでもいいから、返してやりたい。

「これから先も、笑ってられるように…」

ただ幸せそうに笑う顔が見たい。そうしてずっとそれが続けられるように、汐弥に幸せを感じてほしい。

「もどらな…あかんね」

汐弥の元に…そうしてもう一度一から始めよう。あの日、この街を出てきた時から切れてしまった糸を結びなおして、あの頃の様に笑えるように…

「その人…お名前なんて言いはるん?」

琳子の何気ない疑問。俺は一瞬だけそれに戸惑った。琳子と汐弥は顔見知りで、俺と汐弥の関係…それが琳子にとって心情的に複雑なものだと察したから。

「千寿はん?」

どんな顔をすればいい?琳子にどう伝えればいい?

正直にありのままを話すか?汐弥を想いながら琳子を抱いたのだと…

「琳子…お前はいい女だな」

「…?」

本当にそう思った。汐弥という女が俺の傍にいなければ、俺は本気で琳子を気に入っていただろう。

「…すまない」

何か、もっと何か言葉にしようと思った筈なのに、喉から出てきた言葉はそれだけだった。

「…あぁ、そうや」

不意に琳子が思い出したように声を漏らし、柔らかい笑みを浮かべた。ふわりとした華のような微笑み。

「千寿はん…あの時、窓からうちと汐弥さんを見てはったお人やね」

そんな言葉に思わず顔を上げた。あんな些細な事を覚えていたのかと思う。そんなに記憶に残るような事だっただろうか?

「変な顔してはる」

琳子が呆けた俺の顔を見てクスクスと少女のように笑う。

「不思議ですか?うちが覚えてるの」

「…あぁ」

素直に言葉に頷くと、琳子はまた笑った。

「覚えてますよ…だって、あの時一瞬で分かったんやもの…」



「このお人が、汐弥さんの想い人やて」





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